2011年12月20日火曜日

啓蒙とは何か

最近いろいろなところで、いろいろな年代の人々と話す機会が多くなっている。
すると、余計なことを説明しなくても話がどんどんと進む人もいれば、どんなに話をしてもまったく噛み合わない人もいる。

いくら意見が違ったとしても、自分の意見を持つことは非常に大切だ。大切どころか、人生において最重要課題と言ってもいいかもしれない。個人の意見がなければ、個性も人間性もなくなってしまう。

しかし日本の社会を考えてみると、自分の意見を持つことは、必ずしも良いとされていない
「あなたは何がしたいのか」
と聞かれることもあまりないし、人に聞くこともないだろう。

「つべこべ言わずに、とりあえずやるべき事をやりなさい」
という空気が蔓延し、ひとりひとりが何を考えるかは極力排除され、社会のルールや常識が絶対視されている。

このような批判を展開していると、
「それは日本人の民族性なのだから、仕方がない」
と説明する人は少なくない。
日本には日本のやり方があり、個人が自立した西洋型の社会は合っていない、というありがちな意見だ。

私はいつも、それは文化の問題ではなく、人類が共通して直面してきた課題であり、それを西洋とか東洋という言葉で線引きすることがナンセンスだと思っている。

すると、1784年ドイツ哲学者カントが、『啓蒙とは何か』(中山元訳)の冒頭で以下のように述べているのを見つけた。

啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。

未成年の状態について、カントはこう説明する

人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

当時のドイツ人に対して「自分の頭で考えることが大事」とカントが力説しているのは、要するに、当時のドイツ人はあまりものを考えていなかった証拠だろう。

人間の怠惰と臆病にある。未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。

考えないほうが楽だから」という話は、日本人からもよく聞く。

あらゆる場所で、議論するなと叫ぶ声を耳にする。将校は「議論するな、訓練をうけよ」と叫ぶ。税務局の役人は「議論するな、納税せよ」と叫ぶ。牧師は「議論するな、信ぜよ」と叫ぶのである。

これなど、今の日本で「つべこべ言うな。やるべきことを先にやりなさい!」とまったく同じだ。18世紀のドイツでは、議論がタブーだったのである。

私は確信していることがある。
日本人が議論ができないのは、そういう訓練を受けていないから、ということだ。民族性などは関係ない。だから訓練、つまり教育を受ければいいだけの話なのである。

ひとりひとりが自分の頭で考えれば、自然といろいろな意見が出てくるので、必然的に議論へと発展する。議論がタブーとされる社会は、考える個人が少ない証拠と言っても過言ではないだろう。

人と違う意見は素晴らしいのである。批判は大歓迎すべきなのだ。そうやって、いろいろな意見があつまるからこそ、人類としての英知が積み上がっていくのだ。

啓蒙には、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。

自由のうちでもっとも無害な自由を、われわれはもっとエンジョイすべきだろう。そこに洋の東西は関係ない。


永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)


2011年12月9日金曜日

「幸福度に関するアジア太平洋コンファレンス」に参加して

経済発展だけでは人は幸せにならないことに、異論を唱えるひとは少ないだろう。しかし問題は、それ以外で分かりやすい指標がないことだ。

ちなみに先進国では、GDPと国民の満足度に相関関係は見られない

世界の国際機関政府は、近年になってGDP以外の指標を模索している。もちろん一番有名なのはブータンのGNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)であるが、フランス、イギリス、そして日本政府も、幸福についての調査を真剣に取り組みはじめている。

「どうやったら幸福になるかは、個人がそれぞれ違うものだから、指標化することはナンセンス」、という意見もあるだろう。

そういった意見をふまえながらも、本当に幸福度を測ることはナンセンスなのか、それとも何らかの指標として作ることができるのか心理学、脳科学、経済学、統計学など、いろいろな角度からの研究が世界中ですすめられている。

そんな研究者たちに加えて、各国の政策担当者統計担当者ら約 250人の専門家が12月5・6日に世界中から東京へ集合し、二日間のコンファレンスが行われた。

日本から内閣府経済社会総合研究所ESRI)、そして「先進国クラブ」と呼ばれるOECD経済協力開発機構)、アジア開発銀行ADB)、韓国統計庁KOSTAT)、国連アジア太平洋経済社会委員会UNESCAP)と、そうそうたる機関が主催するイベントである。
http://www.measuring-well-being.asia/jp/

そんなコンファレンスに、今回の登壇者のひとりでもある袖川芳之さんの紹介で、私も参加することができた。ちなみに袖川さんは、『幸福の方程式』(ディスカバー携書)の著者である。

会議の当日は内閣府特命担当大臣古川元久氏のスピーチではじまり、各参加機関責任者、そしてブータンのGNH委員会担当長官Karma Tshiteem氏のスピーチがつづいた。(下記の写真は、ブータンのKarma Tshiteem氏)


当日のプログラムはこちら

その後、3つの分科会に別れ、それぞれのテーマについての議論が行われた。ここからは同時通訳がなくなり、英語のみ。後で聞いた話だが、政府の予算の都合でそうなったらしい。

朝9時から18時まで二日間、じっくりと会議が進められた。

ここで会議の内容をすべて要約するのは無理があるので、印象に残った点だけを簡単に書きたい。

会議に参加した人々に、人生で「幸福」が非常に重要であることは、共通の認識だろう。しかし問題は、幸福をどうやって定義するかだ。

日本語でも「幸福」と「幸せ」は若干ニュアンスが違う。そして英語では、「Happiness」の他に「Well-being」が使われることが多い。各国の文化の違いによっても、それぞれの言葉の意味が違ってくる。ちなみに、このコンファレンスの英語のタイトルは「Measuring Well-Being and Fostering the Progress of Societies」で、Happiness ではなくWell-beingを使っている。

「Happiness」という単語では、あまりにも解釈が広くなってしまう懸念があるので、科学的に判定しようとする場合は、Subjective Well-being (SWB)が使われることが主流となっている。日本語の定訳はないが、主観的満足感主観的幸福感、もしくはカタカナで主観的ウェルビーイングとでも訳したほうがいいかもしれない。

しかしSWBでもその解釈に仕方にばらつきがあるようだった。会議中でも、そういった部分を指摘する人が何人かいた。

細かい定義や相違を突っ込んでいけば、必ず例外や矛盾がでてくることは否めない。しかし私としては、もっとマクロな視点で統計結果を眺め、そして文化の差ではなく人類共通の部分に的を絞ることで、人類として普遍性のあることが見えてくると考えている。

拙著『幸福途上国ニッポン』は、そういったアプローチで、文化や社会構造によって個人の幸福度に影響をあたえる要因を探ったものである。

登壇者のひとりで、オーストラリアのクイーンズ大学Paul Frijters教授は、私と似たような考えを持っているようだった。

Paul Frijters氏は190センチほどの長身にスキンヘッド、さらに黒いカウボーイハットを首にかけていたので、会場でもひときわ目立っていた。彼とは、コーヒーブレイクの時に話す機会があった。

私の持論である、日本人の幸福度が低い構造的な理由を説明すると、彼はすぐに「ああ、わかる、わかる。その通りだよ」と、同意をしてくれた。

そして私は、多くの人々に私の持論を説明する際、年齢が高くなればなるほど共感されにくくなっている、という事実も説明した。

すると Frijters氏は、

「そりゃ、そうだよ」

と、当たり前のように言い切った。

「30歳を過ぎた相手は、やめたほうがいいね。時間の無駄だから。だって、例えばなぜ警察官を採用するときに、25歳以下しか募集しないか分かる?25歳をすぎると、他の思考を受け入れることがとても困難になるからだよ。軍隊も同じだよね」

つまり30歳までに経験してきた世界観を、その後に覆すことはほとんど無理ということだろう。

そして彼は、こうも言った。

「君は日本のために、そういう本をどんどん書くべきだよ。日本の若者は、自分が幸せになるための言い訳が必要みたいだから」

よく考えてみると、私の個人的に親しい友人たちは、国籍を問わず、全員が「典型的なナントカ人ではない。30歳になる前に多くは異文化で生活した経験を持ち、文化や社会を硬直的なものとは考えていない。そして自分や自分の住む社会を、一歩離れた視点で見ようとしている。

そして何よりも、国や文化を超越した人間としての根本的な共通項を見いだしており、それが友人としての絆となっている。

私は、「幸せ」も基本的に同じではないかと考えている。つまり、細かい言葉尻や表現に注目するのではなく、人類として共通に感じる「幸せ」は同じであろう。そして、それが重要と思う心もまた、普遍的な事実であると信じている。

だからこそ、個人の幸せを追求することが、人生にとって一番重要であるということも、また人類共通だと思っている。

もちろん「個人の幸せ」に、自分以外の幸せも含まれるという前提だが。


自分が幸せになれば、自然と他人も幸せにしたくなる。しかし他人のことを優先させてばかりいると、自分はいつまでたっても幸せになれないばかりか、他人も幸せにしない可能性がある。
それもまた、人類の共通項であろう。


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2011年11月11日金曜日

未来のグローバルリーダーへ

先日、「未来のグローバルリーダーを育成」している学校で、講義をしてきた。

講演内容はこちら

高校時代からの同級生、福原正大氏が学院長を務める、IGS(Institution for Global Society) だ。

簡単にいうと、世界の大学で通用する学生を育成している。(関連記事はこちら:第四の開国~ハーバード大学と東京大学の二兎を追え

海外留学の支援というと、TOEFLやSATなどのテストを指導する塾と思われがちだが、こちらでは哲学的な思考や、英語でのディスカッション等を中心として、日本人が苦手となりがちなスキルを磨くことが主となっている。

学院長の福原氏自身、外資系の金融機関で取締役を歴任しただけでなく、フランスの大学院INSEAD、グランゼコールHEC)などを卒業しているバリバリの国際派である。(福原氏のプロフィールはこちら

金融機関でカネだけを追いつづける世界から、まったくの別世界である教育に参入した福原氏の心情には、私としても共感できるところが大いにある。

欧米の社会で、日本人が個人として存在感を発揮することは非常にむずかしい。しかしそれは、日本の教育によって個人が抑圧されている結果にすぎない。ならば、もっと個人を尊重する教育をすればいいだけの話だ。

日本には日本のやり方がある、という意見もあるだろう。欧米のマネをする必要などない、と考えるひともいるかもしれない。

しかし、個人が自立して自由を獲得していくことは、欧米でも一般化しはじめたのは19世紀以後の話だ。そして世界の歴史の流れとして、人類が普遍的に追い求めている傾向があることは間違いない。

古今東西、個人を抑圧しつづけて繁栄した社会は存在しない

そして、個人を抑圧する社会では、その個人の満足度・幸福度が低いという結果もある。(参照:幸福途上国ニッポン

リーダーとは、必ずしも集団のトップである必要はないと思う。
自分が自分であることに誇りと責任をもつことが、リーダーとしての一番重要な要素ではないだろうか。

そして何よりも、まず最初に、自分が自分のリーダーであることだろう。


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2011年11月5日土曜日

ガールズナンデスTV

最近は、すっかりテレビを観なくなってしまった。
観たい番組があるときは、録画をして、あとで1.5倍速にして観ている。
もちろんCMはすべて飛ばして。

たとえば、ワールドビジネスサテライトは半分の30分で観ることができる。

たまにニュースなどを生で観ると、話すスピードが遅くてイライラしてしまう。

その代わりに、ネットに費やしている時間はどんどんと長くなっている気がする。
ニュースを読んだり、その論説動画など、貴重な情報源はいくらでも出てくるからだ。

特にフェイスブックを通じて、世界各国の友人たちが「面白い」と感じた情報をシェアしてくれるので、それが面白い確率は非常に高い

ところで、お台場TVという、フジ系列のネット番組がある。そこのガールズナンデスTVという番組に、私の古くからの友人が先日出演した。




22分ごろから登場するのが、ボイストレーナー西めぐみさんで、GEM式ビジネスボイストレーニングという本も出版している。

偶然にも、彼女が番組で紹介している本『厳しい時代を乗り越える 強いリーダーがやるべき88のこと』の著者、福原正大さんは、私の高校時代の同級生だ。

福原さんは、未来のグローバルリーダーを育成するIGSという学校を運営している。

そして36分ごろからは、西さんが拙著『幸福途上国ニッポン』を紹介してくれている。(西さん、ありがとう!)

福原さんの学校では、近日中に私も講師として話をしに行く予定をしているので、その様子はまた後日にアップします。

(追記: こちらに当日の様子がアップされています)

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2011年10月26日水曜日

成田国際高校での講演

昨日、千葉県立成田国際高校の2年D組で、5,6時間目の授業中に講演をしてきた。

私の中学時代の同級生、組田幸一郎氏が英語を教えている学校だ。組田氏とは、バスケットボール部で一緒に汗を流した仲間でもある。

ちなみに組田氏は、英語教師をしながら、英語教育に関する書籍をすでに7冊も出版している。そんな彼のブログのタイトルは英語教育にもの申すだ。

彼とは最近、25年以上ぶりに再会し、今回私が講演することとなった。

「話が面白くなかったら、生徒が寝てもいいから」

と、講演の内容について私が半分冗談で言ったら、なんと彼はそのまま生徒に伝えてしまった

「いつも僕の授業では絶対に寝させないんだけど、今回『寝てもいい』なんて言ったから、生徒は相当期待してるよ。よろしくね」

と、数日前に言われた。そして授業は午後の一番眠くなる時間すごいプレッシャーだ。自分が高校時代の頃を思い出し、眠くなかった授業を思い出しながら、話を組み立てるしかない。

そのうえ、生徒の保護者も何人か来ることとなった。さらなるプレッシャー・・・

さて、当日。

最初の5分が勝負だろうと思い、インパクトのある世界の写真を見せて、「ここはどこでしょう?」ではじめた。そして、現地で私がアホなことをやっている写真を織り交ぜた。

たぶんあまり馴染みのない中南米とアフリカが中心だ。ボリビアのウユニ塩湖、イースター島、ガラパゴス諸島、アフリカ各地の動物。なかなか食いつきはいい。

15分経過し、まだ寝てる生徒はいない

次ぎに自己紹介を兼ねて、私が最初に海外に興味を持った経緯などを話す。高校時代の未知との遭遇だ。

あ、ひとり寝だした。

でも前列を陣取った男子生徒たちの目はまだまだ生きてる。

パキスタン、アフガニスタンの話から、アメリカの入国審査で私がアルカイダに疑われたエピソード等を紹介。

おお、もうひとり寝だした。

5時間目が終了し、休憩をはさんで6時間目に突入。



後半は、日本人と海外のひとびとの生き様の違いを、ゆるく説明しながら「幸せとは?」という、私の得意分野に話をもっていく。


あれ、またひとり寝てるよ。

でも、一番後ろに座ってる2人の保護者は、「うん、うん」うなずいてくれてる。

最後は、私の熱いメッセージで終了。

組田氏いわく、あの時間で他の科目だったら、もっと寝ていても不思議ではないとのこと。まあ、上出来としよう。


講演の終了後、保護者も含めて生徒から、以下の感想をもらった。
41人全員の全文を掲載するのは無理なので、いくつか部分的に抜粋します。

「堅苦しい話を長々とされるのかと思っていましたが、世界各国の動物や、人や、場所や、その他にたくさん楽しいことを聞けて(見られて?)よかったです」

「私にはたくさんのなやみがあって、(中略)そのために今、勉強しています。しかし目崎さんの経験したお話を聞くと、私にも道はたくさんあるんだなと思わせてくれました」

「最初は眠くなるんだろうなあと思っていたけれど、話を聞いてみると、とてもおもしろい話で、夢中になってしまいました」

「途中寝ちゃったけど、すごくおもしろかったです」

「スライドショーの写真で、地球温暖化問題や貧困問題など、世界中にあふれている様々な問題を身近に、そして重く感じることができました」

「ああ、やっぱり(組田)先生の友達なんだと思いました」

「思ったより声が高かった」

「これまでは外国には行きたくないと思っていましたが、今日の話を聞いて、行ってみたくなりました」

「一番強く印象に残ったのは、英語ができるようになったら、日本語ができることが強みになるということです。(中略)とりあえず、自分で何をやるかを決めて、毎日頑張るということを学びました。私も世界で必要とされるような人になりたいと思います」

「これからの進路のこと、すごいなやんでいて、今も悩んでいるけど、本当にしたいことを職業にしたいと思った」

「今、好きなもの、したいこと、夢がある自分は幸せだと思った」

「俺も将来いろいろなところにいって、いろいろなものを感じ、面白い大人になりたいです。自分にウソをつくなと言われて、めっちゃひびきました」

「自分の今後の人生を深く考えたくなる話だった」

「今までの世界観の小ささに気付きました」

「英語をはじめ、世界についてもっと知りたいと思ったし、また世界だけでなく、日本や自分自身を改めて、今日挙がっていたような『自分に正直になる』という見方から見直してみたいと思った」

「私も、自分の好きなことと得意なことが一致するような将来の仕事をみつけたいなと思いました。そして今から、英語と読書を、まねしてやりたいと思いました」

「普段の生活じゃわからないような話をきけて、すごく面白かったです。新しい発見?みたいなのがあって、なんだか新鮮でした」

「短い時間だったけど、たくさんのことを学べました」

「世界を旅したくなった。夢を真剣に考えたくなった」

「自分の好きなことをみつけて、自由にやりたいと思った」

「幸せについて考えてみようと思った」

「周りの目や期待を気にするのではなく、自分の好きな事を結果はどうあれ、一生懸命にやればいい、という言葉がすごく心に響いた。それは今の学校生活でも、これからの人生においても自分のベースになる大事なことだと思う」

「私の考えが少し変わった」

「この地球上にある美しい景色は、いつか自分の目で見たいと思っています」

「世界には私たちの知らない美しい風景があるのだと思い、ますます世界に興味がわいてきました」

「目崎さんが拘束されたと聞いて、人生においてそういう武勇伝みたいなものが欲しいと思った」

「この機会をいかして、これからの人生につなげたいと思った」

「外国に行きたくなりました。私は星がきれいに見える場所にいつか行ってみたいです」

「貴重な体験の写真がたくさんあって、驚いたことがいっぱいでした。そんな世界を旅してきた目崎さんの言葉だからこそ、すごく胸に残りました」

「私は日本から将来出ることはないと思っていましたが、ぜひ、外国に行って物の見方や考え方の違いを知り、よりよい生活ができればいいなと思いました」

「私はまだこの先の進路が決まらずに悩んでいるのですが、お話をきいて少し考え方も変わったきがします」

「世界は広いと改めて感じました。『幸せってなんだろう』と、今まで考えたこともありませんでした」

「”国際人”って、こういう人のことを言うのかと思いました。外国の人からアドバイスを受けているようで、とても新鮮で面白かったです」


保護者の方からは、

「今日のこの時間が未来を担う子供たちの道しるべになったことと思います。」

「欲をいえば、もっといろいろな人に聞いてもらえたら、と思いました」


そして、私の感想。

もっと広い世界、そして「幸せとは何か」に興味をもってくれるきっかけになったのであれば、本当に嬉しいです。

「最近の若者が内向きになっている」という話はよく聞きますが、それは「外の世界がどれだけ面白いか」伝える人が少ないからではないでしょうか。

幸せな人生を送りたくない人はいないと思います。どれだけ幸せになれるかという可能性を想像することができれば、あとは本人の決断次第です。

その可能性を若者たちに示すのが、私たち大人の役割ではないでしょうか。もちろん、大人が幸せに暮らしていなければ、そもそも話になりませんが。

成田国際高校2年D組のみなさん、そして保護者の方々、ご静聴ありがとうございました!韓国への修学旅行、楽しんできてください!!


2011年9月13日火曜日

共感の文明 - 個人の利益と社会の利益のありかた

たとえば映画を観ていると、自分がすっかり主人公の気分になることがある。
また、人の悲しむ顔を見ると、自分も悲しくなってくることもある。

こうした人への共感感情移入は、人間としてごく普通の行為だろう。

共感(Empathy)することは、実は人類の文明でも非常に重要な役割を果たしてきた。そして、「個人の利益」「社会全体の利益」の両方をうまく達成させるには、共感がひとつの大きなキーワードになるのではないか。

共感するという行為がどのように進化し、そして将来はどのような役割を担うべきか、アメリカを代表する文明評論家ジェレミー・レフキン氏が、以下のビデオで非常に分かりやすく解説をしている。

(残念ながら、日本語字幕が付いたバージョンがないので、こちらは英語のみ)


以下、要約です。

共感するという行為が脳の機能として理解されたのは、ある実験の偶然の結果だった。猿の脳ミラー・ニューロンと呼ばれる神経細胞が発見され、人間にも存在することがわかった。

ミラーニューロンは、他人の喜怒哀楽を、あたかも自分が体験しているように感じることを可能にする。

人間にはいくつかの根本的な欲求があるが、「何かに属したい」という欲求は非常に強い。

生まれたての赤ちゃんは、一人が泣き出すと、つられて全員が泣き出す

そして8歳ぐらいになると、「生と死」について理解できるようになる。それが存在という旅の始まりになる。

他人に同情することは、結束することにつながってくる。共感とは、ユートピアの正反対に位置している。つまり天国には共感は存在しない。なぜなら、天国には「死」「苦しみ」も存在しないから。

つまり共感とは、死を認知して、生命を祝うことなのである。それは、私たちのもろさ不完全さが基盤となっている。

いかにして私たちの意識人類の歴史を変えてきたかを考えると、共感は「見えざる手」なのである。

共感することは文明化であり、文明化は共感することである。

初期の人類にとって、共感する相手は血のつながった、自分の部族だけだった。

それが文明の発達とともに、ユダヤ人同士キリスト教同士といった、同じ宗教である人々に共感するようになった。

産業革命後、それが国民国家へと広がっていった。19世紀以前には「ドイツ」「フランス」といった概念は存在していない。それが、ドイツ人、フランス人という共感できる対象となった。

つまり、「血縁」=>「宗教」=>「国籍」 という順序で共感する範囲が広がっていった。

では将来的に、私たちは国籍を超えて、「人類」すべてに共感できるだろうか。

実際の例として、ハイチで大地震が起きたとき、世界中の人々はハイチの人々に同情している。

175,000年前に最初の人類がアフリカで誕生したとき、人口はわずか一万人ほどだった。その子孫として、現在の私たちのDNAには、すべての人々に同じ母親から受け継がれたミトコンドリアDNAが共有されており、同じ父親から受け継がれたY染色体が宿っている。

私たちは、人類すべてが大きな家族の一員であると考え始める必要がある。それは人類だけでなく、すべての生き物、そしてすべての生物圏まで広げる必要がある。

さもなくば、人にとっての他の欲求である「ナルシズム」「物質主義」「暴力」「攻撃」が人類を支配してしまう危険性がある。

共感の文明を創りあげていくことがこれからの私たちの大きな課題である。


私の提唱している「社会個人主義」は、個人の利益を追求する先に、社会的な利益との融合があることが基盤となっている。

社会性を強要されるのではなく、あくまで自発的に、社会的な活動を促すのである。

責任感義務感ではなく、「自分が幸せになるから」という理由で社会貢献できる社会を目指すべきだろう。

共感するという行為は、それを可能にすることを示唆している。

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2011年9月4日日曜日

幸せつながり

幸福途上国ニッポン』を出版してから、「幸せ」をキーワードにいろいろと活動している人たちとの交流が増えてきている。

高校時代の同級生から、「会社幸福論というのをやってる後輩がいるから、是非紹介したい」と連絡をもらい、出会ったのが、ライフスタイルプロデュース荻野淳也さん。

荻野さんは現在、表参道アカデミーにて「会社幸福論 ~幸せな会社とは~」という講座を主催している。先日は、「いい会社に投資する」ことで最近話題になっている鎌倉投信鎌田恭幸さんをゲストに迎えた日に参加した。

鎌田さんも以前は外資系金融で働いていたので、鎌倉投信の取り組みは非常に共感できる。そして私とは共通の友人も沢山いる。

金融という、カネだけを追求する世界に一石を投じるために、カネではなく「いい会社」へ投資する鎌倉投信を鎌田さんが立ち上げたのは、わずか一年ほど前の話だ。ハイリスク、ハイリターンではなく、300年社会に貢献する企業を支援するために長期投資をしている。

(鎌田さんの著書:『外資金融では出会えなかった日本でいちばん投資したい会社』)

重要なのは、やはり「なんのために会社があるのか」と考えることだろう。究極的には、働く社員、取引先、そして関係するひとすべての「幸せ」があるのではないだろうか。生き残ることだけでは不十分だろう。個人の人生でも、ただ生き残るだけでは不十分であるように。


先月哲学カフェで出会った和田さんは、生きるアシストというサイトを運営している。「今日よりも明日の日本が、誰にとっても生きやすい社会の実現を目指し命について、みんなで考えて、集まり繋がることで、ひとつの命に寄り添い、支え合うこと」を目的としている。

要するに、幸せな社会をつくっていこう、という活動である。
そして先日、私はこのサイトのブレーントラスト顧問に就任することとなった。
(詳しくは、また後日に書きます)


先々月は、フェイスブックで「GNH幸せ研究会」というページを発見した。『幸福途上国ニッポン』が紹介されていたからだ。ページを作成した長尾吉彦さんは多岐にわたる活動をされており、先日は、幸福途上国ニッポンの勉強会を開催していただいた。著者としては非常にありがたい。違った世代の魅力的な人たちに集まっていただき、いろいろなお話をすることができた。

ちなみに勉強会が開催された場所は、四谷にある喫茶茶会記。住宅地の中で、それも舗装されていない道の奥にあるので、目指して行かないと絶対に見つからないような超穴場


ここは文化サロンとして、いろいろなイベントが開催されている。民家を改造した、こじんまりとした店内にはアンティーク家具が無造作に置いてあり、雰囲気は満点だ。(写真はHPより転用)



参加していただいた人たちとの一枚。



今回ここに書いたのは、私が最近出会った「幸せつながり」の人たちのほんの一部に過ぎないが、これからもどんどん「幸せつながり」の輪が広がっていくだろうと思っている。

何のために生きているのか
何のために社会があるのか
政治は何のためにあるのか

これらの答えに「個人の幸せ」を無視することはできない。
少なくとも、そう考えるひとが世の中には沢山いることは間違いない。

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2011年8月21日日曜日

小学生の金髪はアリか?

うちのクラスには、金髪の子がいるよ

小学4年生の甥っ子の話だ。外国人留学生の話ではない。その金髪に染めている生徒は、兄弟3人と、さらに親もみんな金髪らしい。

「そりゃあ、親がアホだな。だって、小学生が自分から金髪にしたいなんて思うわけないだろ」

そう言って切り捨てたのは、私の父だった。たしかに一理はある。ヤンキー風の両親の顔が目に浮かんだ。

「でも運動会のときに、その子が応援団をやりたくて、それならば金髪はやめろと先生に言われて、黒髪に直してたよ」

なるほど。すると運動会がなければ、その子はそのまま金髪だったのか。

しかし、ここで根本的な疑問が浮かんできた。そもそも、なぜ金髪にすることがイケナイのか。

小学生には必要ないから?
でも、そもそも日本人で金髪や茶髪にする必要があるひとなどいない。必要か、必要ではないか、という判断でモノゴトを決めるのは、非常に強引である。美術も音楽も、娯楽すべては必要ではない。でも必要でないものがあるから、人生は楽しく有意義になるのではないだろうか。

服装・髪型の乱れは精神の乱れ?
これは、個人を画一化するための常套手段だと思う。そこには「みんなが同じであることが正しい」という発想が根本にある。「ひとはそれぞれが違う」とはまったく逆だ。人を教育するにあたって、個性を潰すのが最良の方法と思っているのなら、話は別だが。

常識的に考えて、おかしい?
こういう意見は、日本人の典型のような気がする。でも、常識って何だろう。みんなと同じか、そうでないか、という基準以外で、常識を定義できるだろうか。みんなと同じことが正しいことだと思う人がいるならば、それほど恐ろしいことはない。

どう考えても、小学生で金髪がイケナイという理由が思いつかない。
他に何かあるだろうか。


もしも何か思いつくならば、是非おしえて頂きたい。





2011年8月15日月曜日

医者の役目とは?

フェイスブックでほとんど偶然に、高校時代の空手部の後輩ふたりとつながった。そして先日、23年ほどぶりに、それぞれと飲みにいった。

ひとりは某大物政治家の長男なので、最近父親の地盤を継ぐため(?)に、地元で秘書をやっている。高校時代は「木村一八と喧嘩をしたことがある」と豪語していた輩だ。

よく話をきくと、中山美穂主演の当時のドラマ『まいどおさわがせします』のロケを見に行き、パンツ一枚で走り回る木村一八を指さして笑っていたら、後で本人に呼び出されたらしい。そこで喧嘩になりそうになったところ、横から佐藤B作が止めに入ったというオチだった。

そんな人物なので、当時から態度がデカく、ふてぶてしい印象を与えることもあった。でも同時に、どこか憎めない、愛嬌のある性格でもあった。要するに、自分に素直に生きているだけなのだろう。個人的には、非常に好感の持てる生き方である。

結局、彼とは朝7時まで飲みながら、政治や社会についていろいろな話をした。駅の改札口の前でも話が終わらず、最後はその場で30分ほど話し込んだ。


もうひとりの後輩は、現在八王子の病院で院長をやっている。フェイスブックでつながるまで、彼が医学部にいって医者になったことさえ知らなかった。日本の医療を世界へ輸出する試みにも取り組んでいるらしい。

私の著書に共感してくれたようで、医療の現場でも集団主義からの脱却が必要と感じているとのことだった。

非常に印象的だった彼のひと言がある。

「医者の役目とは、患者を幸せにすることなんですよ」

私は激しく同感する。しかし現状は、多くの医師たちは彼と同じ意見ではないのだろう。それは、病気を治療する行為、つまり「マイナスをゼロまで戻す」ことが医者の役目と感じている人が多いからではないだろうか。

ちょっと話がそれるが、管総理大臣が国家の目標として「最小不幸社会」を掲げたときに、私は非常に大きな違和感をおぼえた。政治の役目とは、「個人が幸せになる社会」をつくることではないか、と思っているからだ。

もちろん、幸せを感じる要素は無限大にある。個人によって、どう幸せになるかは千差万別だ。だからこそ、自分で心底納得できる、自分だけの人生を選択できる環境をつくることが政治の役目ではないだろうか。それには寛容な社会が絶対に必要となってくる。(参照:幸福途上国ニッポン

そして一番重要なのが、本人の意志である。どうすれば自分が幸せになれるかを、自分で理解していなければ、選択があっても意味がない。

話を戻そう。

医者の役割とは、患者を修理するのではないと思う。私の後輩が言うように、患者の人生がどうすれば幸せになるか、それの手助けとして医療を使うべきではないだろうか。しかしそのためには、本人がどういう人生を望んでいるのかを、医師は知る必要がある。

しかし後輩いわく、現状はちょっと複雑だ。どのような治療をしようかと患者に相談すると、多くの患者は「先生にすべてお任せします」と答えるらしい。しかしながら、もしも医療ミスがあれば、容赦なく訴訟の対象となり責任を追求される。

どうやって病気に向き合うかは、ひとそれぞれが違って当然だろう。ひとりひとりの歩んできた人生が違うのだから、同じ病気でも治療方法が違うことが大前提とすべきではないだろうか。

しかし集団主義では、基本的に人と違うことを認めない。だから患者も先生も、顔のない壊れたロボットを修理するかのように、マイナスからゼロに戻すことに専念する。そこに、「幸せな個人の人生とはなにか」という、プラスの要因を考える判断基準が入る余地はない。

自分の人生は自分のものであれば、自分の病気をどのように治療し、果てはどのように死にたいかも自分で決定するのが当然であろう。

しかし集団主義というシステムでは、「本人の意志」は重要ではない。「みんなそうだから」という理由で、みんなと同じことを強要されてしまう。だから自分の人生が自分のものである、という意識も希薄になっていくのだろう。そのような人生では、幸せを実感でなくても無理はない。

私が拙著『幸福途上国ニッポン』で提唱している社会個人主義は、医療の世界にも必要な生き方といえるのかもしれない。



2011年8月8日月曜日

FM軽井沢に生出演

8月6日(土)12時から30分間、FM軽井沢で放送している「今日の軽井沢人」にゲストとして生出演しました。

video
放送の録音です。





DJの宮尾博子さんと


30分間を本の宣伝も兼ねて、しっかりと話をさせていただきました。
宮尾さん、ありがとうございました!

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2011年8月4日木曜日

お知らせ(FM軽井沢)

FM軽井沢(77.5MHz)に8月6日(土)12時から出演します。

ネットでも生放送を配信しているので、以下のリンクからどうぞ。
http://www.simulradio.jp/asx/fmkaruizawa.asx


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2011年7月24日日曜日

一枚の絵

一枚の絵が、いろいろなストーリーを語ってくれることがある。



















「こいつねえ、波に持っていかれちゃったんだよ・・・」

宮城県石巻市で被災した、男性の言葉だ。

NPO法人フラワーピーフルがボランティア活動の一環として、プライマル・ペインティングという絵の具を使って色を楽しむワークショップを開催した時のことだった。



































(写真上: 「ほくと」を描いた男性)

会場では、大人も子供も一緒になって、「色の遊び」を体験。





































ちかいうちに、出来上がった作品を展示する予定らしいです。


「ほくと」の絵が、どうしても頭から離れない。

こういう作品を販売できるなら、非常に有効な被災者支援のひとつになるのだろう・・・。


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2011年7月22日金曜日

インタービュー記事

本日(2011年7月22日付)の埼玉建設新聞に、インタビュー記事が掲載されました。


2011年7月17日日曜日

城繁幸氏の書評

コンサルタントとして活躍している城繁幸氏が、ブログJoe's Laboで、
幸福途上国ニッポン』を取り上げて下さいました。

城繁幸氏のブログ

以下に、本文を貼り付けておきます。
素晴らしい書評をありがとうございました!

世界100カ国を10年かけて回ったという著者が、各地域での経験をからめつつ、様々なアングルから“幸福度”を分析する。

経済力のわりに日本人の幸福度は高くないという話は、以前からわりと有名だ。実際、いろいろな調査を見ても、日本の幸福度は低迷している。
「長引く不況のせいだ」となんとなく思っている人もいるかもしれない。
だが、実は1950年代からバブル期を通じて現在にいたるまで、日本人の幸福度はほとんど変わっていないのだという。日本人にとって、幸福とは何を意味するのだろう。
ここから、本書の幸福度を巡る旅はスタートする。

まず、世界各国を比較してみても、格差と幸福度にはそれほどの相関関係は見られない。
たとえば90年代前半の日本は世界で2番目に格差の小さな国だったが、134か国中62位に転落した2008年も、幸福度に変化は見られない。

逆に、強い相関関係が見られるのが、多様性に対しての寛容さだ。
男女間の格差の小ささはもちろん、同性間の結婚まで認められているような国は、総じて幸福度が高い。
多様性の意味するものは、「個人の選択の自由」である。

実際に統計を見ても、自主性と幸福度との相関関係は、所得と幸福度との相関より20倍もある。
社会的地位や所得に関係なく、自分で自分の生活の管理ができる機会がある人のほうが、生活満足度が高いことも明らかになった。(中略)自分の意思で選択し、その選択に責任を持つという精神があれば、どのような人生を送っても幸福度は高い。結果が問題なのではない。どうやって生きるかが重要なのである。


その点、日本人は自分で自分の舵を取っていると言えるだろうか。

本書では本当に色々な調査結果が引用されていて、そこからは経済大国日本のもう一つの姿がくっきりと浮かび上がっている。
たとえば、以下の質問に対してYESと答えた日本人の割合は、世界最低水準だ。

楽しい時間を過ごすことは重要か?
選択の自由はあるか?
国を誇りに思っているか?

つまり、日本人は、楽しい時間を過ごしてはいけないと思い、選択の自由があまりないと感じ、自らの意思をあまり反映できない人生を過ごしているということになる。

そして著者は、ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムの言葉を引用しつつ、自己の自発的な行為が、より高い次元での精神的安定をつくりだし、世界との新しい絆をつくることが出来ると説く。
「選択の幅が無い」とか「人生が一般勝負すぎる」という点については、恐らく多くの人がうすうす感じていることだと思われる。それを見事に一本の絵物語のように明快に解説してくれる良書だ。

日本が個人の幸福度を高めるためには、著者の提言するような社会個人主義を実現させるしかないが、それはどこかにあるボタンを押すことではなく、我々自身が変わるしかない。
最後に著者の言葉を引用しておこう。

集団主義であるかぎりは、寛容な社会にはなりえない。
協調性を強いることは「異質な個人を涵養しない」と同じである。



ここからは私見。
実は大企業や労組が従業員の満足度調査をやると、たいてい上記のように
「楽しくない、選択の自由が無い、子供には入社を薦めたくない」というようなゲンナリするような結果が出るものだ。

恐らく、この問題は雇用問題ともリンクしている。
社会においても企業においても「やらされている感」から「自分で選択している感」にシフトさせることが、幸福度や満足度を向上させるうえでの目指すべき方向性だ。

規制とか正社員転換などという言葉の先に待っているのは、少なくなる椅子をめぐる
「さらなる選択肢の少ない社会」でしかないだろう。

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2011年7月15日金曜日

南米から届いた読後感想

現在南米エクアドルに滞在している友人、ゆうこさんが、『幸福途上国ニッポン』の読後感想文をブログに書いてくれました。(ありがとう!)

南米は世界でも幸福度が高く、また自分の人生が自由であると感じる人が最も多い国でもあります。

そんな地域に住むひとりの日本人の視点なので、新鮮なものがありました。
ちなみに、ゆうこさんは夫婦で世界一周を経験しています。

ブログのリンクはこちらですが、以下に本文を添付します。

(文中の「まぁくん」とは私の事です)

2日間で一気に読み切りました。読み終わった後の率直な感想は、感動と共感と、若干の戸惑いが一気に来た事でした。

感動はまぁくんの10年間の旅での想いと、夢を叶えてこんなに素敵な本を書き上げてる事に関して。

共感は、まぁくんの幸せについての結論が、私が去年そうなんじゃないかと思って南米に単身赴任を決めた考え方と非常に似通っていた点です。

これはちょっとびっくりでした。
私は国家についてとかは正直あまり深く考えた事がなく、個人の幸せと企業の在り方について去年凄く考えました。

正直カタラタスは上手くいっていましたが、確かに日本社会の中で集団主義的な抑圧は常に感じていた様に思います。

それで、本当にこのままでいいのかなって真剣に悩んだ時から、人生の目的や幸せ、夫婦の在り方について考える様になりました。

まさに「自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性に基づいた積極的な自由の完全な実現に進むかの、二者択一に迫られている」状況でした。

私は多分自分でも自己実現欲が強い様な気がしますが、なお(主人)にこの事を正直に話しても正直理解して貰えるかどうか不安でした。

でも、結局今むしろ表面上楽に見える店の一部でずっと働くと言う「自ら進んで大きな機械の歯車となる事で孤独は避けられるかも知れない」生き方を選んだら、きっと将来自分で選択したにも関わらず、過ぎてしまった取り返しのつかない事を店やなおのせいにして責める事によって自分を犠牲者にして正当化する生き方になり、最悪の場合夫婦関係も崩壊すると思いました。

なので、例え不安だったり、身勝手だと周りに批判されたりしても自発的な活動を通して自我の統一を実現し、最終的にはお店にも貢献できる自分になろうと決めたのです。

今は自分が幸せを感じているから店を愛する事も出来、なおに感謝する事も出来、出来る限りの協力を惜しまない姿勢を持てる様になりました。

これがみなの意識の中で国家レベルに達した時、まぁくんの言う「社会個人主義」が実現するのかなと思いました。

また、最後に若干の戸惑いについてですが、この本を読ませて頂いて、自分の無意識に捕らわれているいくつかの概念に気が付きました。

「迷惑」と「批判」についての章では、私の考え方は非常に日本人的であると気が付きました。

上下関係を秩序や尊敬の為にある程度は必要であると思っている点は儒教の影響だったとは全く気が付いていませんでしたし・・・。

完全に納得出来てなくても何となく丸く収める為には時には個を犠牲にする必要もある・・・とも思っている所もあります。

日常の小さな事では非常に日本人的です。

そして多くの日本人と同じく、「批判」と「議論」には非常に弱く、感情的になりやすいです。
批判されたらもう自分が悪いと思う日本人の典型みたいな思考パターンが自分にもあるなと思いました。

モンスターペアレンツの例はとても分かりやすかったですが、私もこれからそんな状況が来たらこの例を思い出して、たわごとと新しい奇抜な意見の見極めを冷静に出来る様に心掛けたいと思います。

今エクアドルで5カ月程過ごしてみて、エクアドルは南米の中では幸福実感度は低めな様ですが、それでも日本人に比べて随分毎日を楽しんでるなと感じる事が多いです。

先日、クイヤベノ自然保護区の中にジャングルロッジを経営している社長さんとワインを飲みましたが、彼との話の中でも、「人生は短い。だから楽しまなきゃいけないよ」と何度か言われました。

彼は元エクアドルの軍隊にいて、ペルーとのジャングルでの戦争などを体験しその体験記を出したりもしていますが、人の死等、最悪な事態や最高の気分も経験して、結論はやはり今プレゼントされている人生を楽しむ事だと語っていました。

今回まぁくんの本で今まで何となく思っていた事が統計学や心理学に基づいてスッキリ証明された様な気持ちです。

寛容な心は今よりもっと意識して育てつつ、これからも自分の内なる声に正直に生きていきたいと思いました。

素敵な本を有難う御座いました!!


そしてこの数日後、スペイン語の学校で先生とこの本の内容について話しました。

すると、面白い事が分かってきました。

先生:「ゆうこは日本にいる時よりエクアドルの方が自由な感じがする??」

私:「はい、何でだか分かりませんがそんな気がします。本にも書いてありますが、日本は法律等眼に見える制約ではなく、多分常識とか空気みたいな物が存在するんだと思います。」

先生:「不思議な事に、私の弟はノルウェ-に移住したんだけど、帰って来たら全然別人になってたの。仕事仕事っていつも仕事の事考えて。。。エクアドルにいた時はあんなじゃなかったのに。」

私:「じゃあ人種とか関係なく、住む国によってその人のキャラクタ-も影響を受けて変わっちゃうって事ですか?」

先生:「多分そうだと思う。」

との事。

人種や文化ではなく、住む国の雰囲気や常識によって幸福度が変わってくるとしたら、桃源郷を探すって言う発想は強ち逃げとは言えない部分もあるのかも知れないなと思いました。

自分が自分らしく、幸せと感じられる場所を見付けて住むのも1つのライフスタイルだと思います。

全ては自分!!

と良く耳にしますが、本当にその通りだと思います。

自分で自分を先ず幸せにして、好きな事の中で与えられた才能を磨く事で、大きな目で見たら結果的に社会に最大限貢献できる自分になれると言う事だと思います。

日本人に生まれた以上、世界のどこで活躍しても色々な形で日本に還元出来る訳ですからね★

そんな事とか、色んな事を考える事が出来た本でした。

ご興味があれは是非♪

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2011年7月4日月曜日

サモハン

友人が、拙著『幸福途上国ニッポン』についてブログに書いてくれました。
http://hiratomo.com/59489721

友達だからと単に持ち上げて誉めるのではなく、なるべく客観的に、冷静に語ろうとしている彼の姿勢に、男の愛情を感じました。

彼は高校時代に香港映画俳優「サモハン・キンポー」に似ていたので、「サモハン」と呼ばれていました。(たぶん私の命名です)

空手部に入部した当時、サモハンは現在の姿からは想像もできないほどのメタボ体型でした。そこで先輩達からは特に目を付けられ、しごきが酷い時など、サモハンは格好の餌食にされていました。

しかし文字通り「地獄のような毎日」の練習の結果(現在ならば、間違いなく社会問題になっているでしょう)サモハンの顔は、みるみると精悍な顔つきになっていきました。

無類の努力家でもあるサモハンは、最後は空手の型のレギュラー選手となりました。さらに彼の凄いところは、大学で少林寺拳法部に入部し、なんと全国大会で優勝まで果たしたのです。

大学時代にキャンパスでサモハンに出会ったとき、挨拶代わりにふざけて背後から軽く蹴りを入れてみました。すると瞬間的にかわされ、すかさずカウンターの蹴りを3発食ってしまいました。それも凄い早さで。周囲にいた女子大生の目がすっかりハートでした。(今度会ったときに、また試してみようと思ってます)

今では「サモハン」と呼んでも、なぜなのか誰も理解できないでしょう。
でも私にとって、彼はいつまでもサモハンであり、サモハンがサモハンに見えないところが、サモハンを最もサモハンらしくしているのだと、勝手に思っています。

サモハンのブログ:
http://hiratomo.com/59489721



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2011年7月3日日曜日

書店営業デビュー

先日、都内の有名書店15店舗に営業をしてきた。

書籍コーディネーターの小山氏に同行していただき、書店員の方に拙著の宣伝をお願いするのが目的だ。

今までまったく知らなかったのは、大きな書店では売り場ごとに担当の書店員さんが違うこと。そして各担当の方の裁量で、本の並べ方が違ってくる。

幸福途上国ニッポン』はまだ発売直後であり、やはりソニー元社長・出井さんの帯のインパクトもあり、平積みか、もしくは縦置きで表紙が見えるように目立つところに置かれている店が多かった。(ありがとうございます!)





書店員さんにお礼を伝え、手書きのポップを渡すと、すぐに取り付けてくれるお店もあった。

(ブックファースト渋谷店さん、有り難うございます!)

数日後には、友人が別の店の写真を送ってきてくれた。


でも、これだと帯が隠れてしまっている。どちらがいいのか、よくわからない。

まったく対照的に、某大手書店の渋谷店などで、一冊のみが棚に刺してあるだけというお店もあった。うーん、これは難しいだろう。

来週は、横浜近辺を中心にまわって行こうと思う。

誰かが「本を書く努力と、本を売る努力は同じくらいにやらないといけない」と言っていた。

まったくその通りなのかもしれない。


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2011年6月23日木曜日

幸福度指標は無駄なのか?

「国民の幸福など測っても無駄です。そもそも幸せは測れないもの」と、幸福度指標元世界銀行副総裁の西水美恵子氏が語っている。

「国民総生産は生産物を市場価格に換算して足し合わせる。ところが幸福は人それぞれ、市場価格などで換算できず足し算できない。『測れるものは必ず管理される』という言葉があります。国民の幸福を無理に数値化すると、国が間違った指標を管理しようとして危険なことになります」
http://www.nikkei.com/news/interview/genre/article/g=96958A96889DE2EBE7E4E5E4E4E2E0E2E2E4E0E2E3E2869180E2E2E2;p=9694E3E3E2E1E0E2E3E2E7E4E4EB

うーん。
確かに西水氏の発言には一理ある。しかし彼女は、「幸福度指標」と「個人の人生の満足度」を同じだと考えているのだろうか。

「幸福度指標」として政府が、たとえば識字率、自殺率、親しい友人の数、収入、・・・等々の基準で幸福度を測ろうとすると問題はあるだろし、危険なこともあるだろう。ひとそれぞれ、どうやって幸福を感じるか千差万別なのだから。

しかし「人生の満足」はどうだろう。これだと、「何によって満足したか」は問われない。人生をアクティブに満喫しようが、家でゲームをやっていようが、結果として「満足しているかどうか」だけの問題になる。

では、「満足度の基準」がひとそれぞれ、まったく違うことはありうるだろうか。

ひとりひとりの「満足度」の基準が違うとすると、それを足し合わせても意味がないことになる。すると、顧客満足度が高いお店や会社には、まったく信憑性がないことになる。本当にそうだろうか。

現実は、「満足度」という尺度自体は、ほとんどの人が共有している傾向がみえる。調査する人の数が増えれば、統計的な意味合いも高くなるだろう。

もっと簡単な話、私が「80%嬉しい」と感じる80%と、他の人が「80%嬉しい」と感じる「80」という数字は、非常に近いということだ。私の90%が、ある人の10%と同じであるとは考えにくい。

したがって「幸福度指標」といっても、少し気をつけなければならない。
政府が勝手に、「これと、これと、これが国民を幸福にするから、これらをやりなさい」といった指標であるならば、非常に危険であり、そんな指標はいらないと思う。この点は、西水氏に同意できる。

しかし、「幸福度指標」が「人生の満足度」であるならば、話は別だろう。

この世の中に満足したくない人などいない。違うのは満足する方法であって、「満足したい」という欲求は人類共通どころか、生き物すべてに共通している。

だからこそ、個人の満足度が高くなる社会を目指す、という意味で「幸福度」を指標にするならば、それは社会的にも非常に有意義ではないだろうか。

でも、ここで大きな問題が出てくる。

どうすれば個人の満足度が高くなる社会になるのだろうか。

キーワードは、個人に寛容な社会
そして個人の自由が認められている社会。
それはまた、次の機会に書きます。

もしくは、拙著『幸福途上国ニッポン』を参照してください。


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2011年6月19日日曜日

幸福途上国ニッポン

拙著の見本が届きました。


やはり、ソニー元社長の出井さんの推薦文と写真がインパクトあります。

書店で27日発売です。(ネットは24日)

幸福途上国ニッポン(アスペクト社)


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2011年6月7日火曜日

幸せのモノサシ

6月2日のクローズアップ現代で、

  幸せのモノサシ 
  ~指標づくりの模索~
が放送された。
幸せ…とらえどころのない、人類の永遠のテーマ。この幸せというのは、どうやって測るのか?…今、世界各国で、国民の“幸福度”を測る新しい指標づくりが進んでいる。背景にあるのは、これまで社会の豊かさを測る基準とされてきたGDPなど経済指標の行き詰まり。所得上昇と幸せが結びつかない(幸福の逆説)、地球環境などの持続可能性がない(成長の限界)などが明らかになり、社会の進歩を何で測っていくのかが改めて問われているのだ。日本でも内閣府が、経済学者・社会学者・心理学者の意見を集約し、幸福度指標の原案を示す計画だ。一方、自治体や企業の中には、経済成長や所得上昇など金銭の豊かさでない、新たな幸福論を掲げて既存のあり方を見直そうとするところも出てきている。何故今、幸せを測る必要があるのか?一体、これからの日本の「幸せ」とはどんなものなのか?これから私たちがめざす社会のあり方・人々の生き方を、指標という側面から考える。

 まず気になったのが、幸福度が低い理由として、「格差」や「将来の不安」などの「社会的不安」を指摘することが当たり前のようになっていることだ。

昔はもっと幸せに暮らしていたのに、近年の政治不信なども重なって、日本人が幸せを実感していない、という論調である。

はっきりいうが、これは事実とまったく異なる。

日本の幸福度は、1958年からほぼ変化していない。そして1980年代のバブル期には、日本は世界で2番目に格差の少ない社会だった。当時の失業率も2%程度と、雇用の問題も年金の問題も一切なかった。しかし、当時の日本の幸福度は、今と同じく先進国で最低だった。
(参照:『幸福途上国ニッポン』目崎雅昭著)

要するに、現在の日本人の幸福度が低い理由に、格差等の経済・社会的な要因はまったく関係ないのが事実である。もちろんGDPとも関係ないことは、周知の事実だ。

「昔は幸せだった」と言ってる人も、単なる勘違いなのである。なにしろ、50年以上も前から日本の幸福度が変わっていないのだから。

では、なぜ日本人はそれほど幸せを実感していないのだろうか。

実は、日本とまったく同じ傾向を示している国がある。韓国、台湾、香港、シンガポールである。これらの国は、すべて幸福度があまり高くない

ここから推測できるのは、東アジア(シンガポールは東アジアではないが、華人が77%を占めている)には、社会構造として幸福度を低くする仕組みがあるのではないか、ということである。

次回から、「幸福度を頭打ちにする構造」について、考えていきたい。


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2011年5月25日水曜日

出版決定!

6月24日に拙著の出版が決定しました。
ネット販売開始が24日、書店販売が6月27日です。

題名は、

『幸福途上国ニッポン』

です。

詳しくは、また追ってアップいたします。

2011年5月15日日曜日

同性結婚

日本だと「同性結婚」だが、アメリカではGay Marriageになる。(Same Sex Marriageともいう)

で、以下はアメリカの女性コメディアンの言葉。

要するに、Gay Marriage という表現自体がおかしい。

「今日の午後、ゲイ・ランチをした」
「車をゲイ駐車した」
なんていわないでしょ、ということ。

なるほどね。

2011年3月16日水曜日

延期のおしらせ

3月17日に予定していました「ゆるく哲学しよう」は、延期することにしました。

この件につきましては、また追って連絡いたします。

2011年3月10日木曜日

コンピューター以前の社会

日本語に訳そうと思いましたが、それでは全然おもしろくなくなってしまうので、
原文のままアップしました。

言語がどのように変遷していくかという意味で、とても興味深いです。

2011年3月4日金曜日

最後の砦

好きなことで生きろと、人はいう
個性が大事と、皆もうなずく
やりたいことを探し、旅に出る者もいる
街にはモノがあふれ
人生の選択肢は無限大にあるかのようだ

でもぼくは混乱している
選択肢が多いからではない
個性とともに協調性を求められ
やりたいことも、常識を超えてはいけない
ぼくに許されるのは
すでにあるものを消費するだけ

結局ぼくの自由とは
常識と、前例と、世間体と
年齢と、性別に相応という縛りのなかで
人に迷惑にならないように
周りに気をつかいながら
かすかに残ったぼくの残がいを拾うだけ

ぼくの心は知っている
ぼくがぼくであるために
ぼくの心を解放するには
好きなことは好き、嫌いなことは嫌いと
堂々と宣言することだ

いくら常識外れと言われても
どれだけ人と違い
どれほどワガママと非難されようが
たとえ年不相応と呼ばれ
男らしくなくても
自分にだけは正直でありたい

ぼくがぼくでいるための
それが最後の砦(とりで)なのだから

2011年2月28日月曜日

オタク宣言

オタクと呼ばれる人が、私は個人的に好きだ。

私自身に共通した要素があることも理由のひとつだが、最大の理由は、オタクは「自分が好きなこと」と「他の人が好きなこと」を天秤にかけないからだ。

近年は多くの親が子供に「好きなことをやりなさい」と言う。しかし実際は、親の「好き」の範囲でなければ認められない。つまり子供の好きなことではなく、親の好きなことなら何でもいいだけ。

自分の心に正直に、忠実に生きることは容易ではない。常識、他人の目、世間体、前例など、黙って従えとプレッシャーをかけてくる。30歳は30歳らしく、男は男らしく、親は親らしく等々、すべてを「~らしく」という決まった形に当てはめようとするプレッシャー。

本当に「自分らしく」生きることは、とてもむずかしい。でもオタクは少なくとも、自分が心から愛することを明確にわかっている。

普通でいたいと願い、こだわりもなく、他人に協調することにばかり気を取られて生きるよりも、たとえ世間から揶揄されようが、自分に忠実に生きる姿勢を崩さないオタクの生き方にこそ、人間としての魅力を感じる。

ソウイウモノニ、ワタシハナリタイ


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2011年2月26日土曜日

お知らせ(参加者募集)

3月17日(木)20時から、ゆるく哲学する「ユル哲」を開催します。
今回のテーマは 

「人はなぜインドに憧れるのか」


「インド」と聞いて、なにか神秘的なものを想像する人は多いのではないでしょうか。私自身もそんなイメージを抱き、かつてインドを目指しました。結果として2年ほどインド国内を放浪し、そのうちの1年をアシュラムと呼ばれる瞑想寺で過ごしました。

よく「インドはハマる人と、そうではない人に別れる」と聞きますが、私は実は、どちらでもない気がします。しかし少なくとも、インドに沢山の魅力があることは間違いないでしょう。ひとことで「インド」といっても、人口が10億を超える大きな国ですし、言語も主なものだけで15を超えます。インド料理が辛いというのも、一部を指しているだけです。そんなインドの魅力とともに、なぜ多くの人々はインドに憧れるのか、という視点から「インド」を考えてみたいと思います。

行ったことはないけれどインドに興味のある人、行きたくもないし興味もないけど、インドに憧れる人の気を知りたい人、そしてもちろんインド通の人も、「インド」という言葉で何かを感じる方は是非ご参加ください。

今回はインド人の友人も参加する予定です。

参考図書として、『インドのことはインド人に聞け!』(中島岳志著)、『深い河』(遠藤周作著)その他を予定しています。

詳しくは、以下のリンクから:
http://kokorouta.wordpress.com/



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2011年2月21日月曜日

夫婦の別姓を、認める理由と認めない理由

夫婦別姓について、訴訟が2月14日にはじまった。

夫婦別姓を認めない民法の規定は個人の尊厳や両性の平等を保障した憲法に反するとして、3都府県の男女5人が14日、1人100万~150万円の国家賠償などを求めて東京地裁に提訴した。原告側によると、夫婦別姓を求める違憲訴訟は初めて。法制審議会が96年に夫婦が各自の姓を名乗れる「選択的夫婦別姓制度」の導入を答申したものの、長期にわたり立法措置が取られていないことから「国会の怠慢は明らかだ」と訴える。(by 毎日JP)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110214-00000072-mai-soci
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110214-00000577-san-soci

さて、選択的夫婦別姓について、あなたはどのような意見だろうか。

「夫婦別姓」で検索してみたところ、「ちょっと待った!夫婦別姓」というサイトがヒットした。内容的には反対派を象徴していると思うので、同サイトで主張している内容を以下に抜粋してみる。

1) 現在、さまざまな面で家庭や地域社会の機能が損なわれ、それが原因となって さまざまな犯罪や、けじめや責任感のないいい加減な結婚離婚がたくさん起き、 それによって人が傷ついたり悲しい思いをしたり被害を受けたりしている。 実例として幼児虐待の問題や、ドメスティックバイオレンス、離婚率の増加、 子供放置、育児放棄、その他。
(2) その背景には、家族・親族という共同体の機能よりも個人の嗜好や趣味や 楽しみを優先するという誤った個人主義観の蔓延がある。
(3) 婚姻時の氏の統一には、新家庭の建設とともに名称を決定するという意義が 存在するが、その意義よりも個人の小さな都合のほうを優先する考え方が、選択制度 主張の背景に存在している。
(4) つまり選択制度をよしとすることは、(2)のような誤った個人主義観を法律や 社会や政治が公認したかのような錯覚を与え、ひいてはそれによって(1)のような 問題を起こす人たちを助長する恐れがある。
このサイトを書いてる人、なんと動画まで作ってます!



そして、まとめとして以下のように述べている。
(1) 現行の制度にはきちんとした意味があって現在の形になっている
(2) どうしても選択制度にしなければならない理由について、納得のいく説明が されない
(3) したがって選択制度は「特に必要性のない制度」と判断せざるを得ない
(4) もし現在の制度よりも優れた制度があるなら賛成するのにやぶさかではないが、 検証してみると選択制度は利点よりも欠点や問題点のほうが多いと思われる
(5) 以上のことより、選択的夫婦別姓制度には賛成できない
さて、以上の論点について、あなたは納得されただろうか。

私が特に気になったのは、まず最初の論点である。

幼児虐待の問題や、ドメスティックバイオレンス、離婚率の増加、 子供放置、育児放棄

確かに、こういった問題は現実として起こっている。しかし、その理由を

共同体の機能よりも個人の嗜好や趣味や 楽しみを優先するという誤った個人主義観の蔓延

としているあたりは、首をかしげてしまう。個人主義が蔓延すると、幼児虐待やDV、離婚、育児放棄などが増えるのだろうか。個人主義が浸透している欧米諸国の現状はどうなっているか。

実際の統計を見てみると、世界的にドメスティックバイオレンスがもっとも頻繁に起こっているのは南アフリカである。南アフリカ人女性のうち40%が、初めての性交渉がレイプだったと語っている。そしてエジプトの地方では、80%の女性が夫に虐待された経験がある。(理由の多くは、夫とのセックスを拒否したため)
世界の他の国をみても、虐待の率が高いのは発展途上国であり、欧米諸国は比較的に低い

http://info.k4health.org/pr/l11/violence.pdf
http://en.wikipedia.org/wiki/Epidemiology_of_domestic_violence

そもそも「個人主義」とは、自分と共に他人の権利も尊重するものである。そこで個人主義が浸透すればするほど、女性や子供への虐待は減るはずであるし、実際にもそういう傾向を示している。だから虐待は、個人の尊重とは正反対の、男尊女卑的な発想、もしくは集団主義的な発想をもっているほうが起こりやすい。そして中東諸国やアフリカ諸国などは、男尊女卑や集団主義的な要素が非常に強い。

では日本はどうかというと、世界的なレベルで比べると、男尊女卑が根強く残っている。ちなみに男女平等指数では、日本は134ヶ国中94位と、先進国で最低である。つまり、日本には個人主義がほとんど浸透していないことになる。くどいかもしれないが、個人主義が浸透すれば、個人の自由と権利を保障してくれるので、「女性」という立場だけで不利な扱いをされることはない。

近年日本に増えてきたとされる「モンスター」などは、個人主義者ではなく利己主義者である。この二つは似ているようだが、本質的にはまったく違う。利己主義者は自分の利益しか考えないが、個人主義者は、自分の利益を守ると同時に、他人の利益も尊重する。

では、離婚率の増加はどうだろう。離婚率はすべての先進国で増えている。しかし男女が別姓にすると離婚率が上がるという根拠はどこにもない

結婚の選択肢として、男女が別々の姓を名乗りたいという「違ったライフスタイル」を求める人に対して、「それはダメです」と禁止することは、個人の自由を束縛するだけでなく、ある特定の人々の価値観を押しつけているにすぎない。


寛容な社会とは、人と違った生き方をしても、それが他人の自由を奪わないかぎり、すべて認めることではないだろうか。伝統や慣習などは、かならずしも最優先課題とするべきではないのかもしれない。

たとえ伝統を守っても、個人が幸せでなければ、そんな伝統は必要ないだろう。事実として、人類の発展の歴史は、奴隷制度や差別など、数々の個人を抑圧する制度を廃止してきた。

そういった個人に寛容な、懐の深い社会こそが、本当に人にやさしい社会なのであろう。





2011年2月20日日曜日

報告

2月18日に開催した「ユル哲」の録画を添付します。

ココロウタ ブックナイト ユル哲BOOK NITE 2/18/2011 Part 1

源氏で21世紀モテ女子をテツガクする! 

参考図書: 「源氏物語」「ブス論で読む源氏物語」「夜這いの民俗学」「浮気人類進化論 」「源氏物語の女たち」

ココロウタ ブックナイト ユル哲BOOK NITE 2/18/2011 Part 2




2011年2月16日水曜日

お知らせ(ライブ配信)

2月18日20時から開催される、「ゆるく哲学する会」(通称「ユル哲」)を、ユーストリームでライブ配信します。以下の画面、もしくは以下のリンクからどうぞ。
http://www.ustream.tv/


Streaming Video by Ustream.TV
ユル哲:源氏で21世紀モテ女子をテツガクする!
 2月18日20:00~



2011年2月6日日曜日

お知らせ(参加者募集)

「ゆるく哲学」する会のご案内です。
2月18日(金)20時から。
場所は広尾か、もしくは西麻布になります。

今回は、ちょっと趣向を変えてテーマが
源氏物語で21世紀的モテ女子をテツガクする」です。

「源氏物語」をテーマに、21世紀の「モテる女性」とはどんな女性なのか、ゆるく哲学したいと思います。

源氏物語のくわしい内容を知らなくても、テーマに興味さえあれば大歓迎。ちょっと賛否両論ありそうな『「ブス論」で読む源氏物語』(大塚ひかり著)なども参考に、言いたいことを出し合いましょう。もちろん「モテる男」についても。

詳細、または参加申し込みは、以下のリンクからお願いします。

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2011年2月4日金曜日

変化の兆し


ある中国人の男性(33)が、覚せい剤取締法違反(営利目的輸入)で逮捕された。そして東京地方裁判所は1月24日、裁判員裁判で無罪を言い渡した。


正式には2月7日に決定するのだが、判決について東京地検は控訴しないことを検討しているらしい。これによって、裁判員裁判が始まって以来、初の全面無罪判決となる見通しとなった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110202-00000010-mai-soci


一見、なんとなくスルーしてしまいがちなニュースだが、この判決は非常に重要な意味があるといえるだろう。


以前「裁判員裁判の是非」でも書いたが、これまで検察が起訴した裁判の有罪確定率は99.9%である。つまり検察が実質上、裁判官の役目をしているということだ。


今回のような全面無罪判決が決定することによって、歪んだシステムが少しづつでも是正されているような気がする。





2011年1月29日土曜日

報告

1月27日に「ゆるく哲学を語ろう」のライブ配信をユーストリームにて行いました。
画像があまり鮮明ではありませんが、録画したものを以下に貼り付けておきます。


ココロウタ ブックナイト ユル哲 BOOK NITE 幸福について 01/27/11
http://www.ustream.tv/recorded/12277797


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2011年1月17日月曜日

お知らせ(ライブ配信)

1月27日19時半から開催される「ゆるく哲学を語ろう (通称「ユル哲」)を、ユーストリームでライブ配信しようと計画しています。

ユーストリームで「ユル哲」を検索していただくか、もしくは下の画面で視聴できます。



ココロウタ ブックナイト ユル哲Book NITE 
幸福について
1月27日19:30~

2011年1月6日木曜日

お知らせ(参加者募集)

参加者募集のお知らせです。

1月27日(木)20:00から、広尾のブックラウンジで、
「第二回ゆるく哲学を語ろう!」を実施します。

今回のテーマは、「幸せ」について。

「幸せ」って何なのでしょう。愛する人がいること?信頼できる仲間や家族?達成感?それとも、日常の些細なこと?快楽と幸福の違いは?ところで、うちの犬は幸せ?などなど、意見や疑問はたくさんあると思います。

<幸せ>=<消費>÷<欲望>

という、ちょっと強引な公式を作った経済学者までいます。ちなみに「幸福度」の調査では、日本人はあまり幸せではないとい う結果もあります。

「そんな幸福を数値化するなんて意味ない」という意見もあるでしょう。
「いやいや、日本の幸福度が低いのは、そもそも・・・」と、不幸の原因を追及したい人もいるでしょう。

そうやって、誰でも一度は考えたことのある「幸せ」を、いろいろな立場で、いろいろな視点から話し合いたいと思いま す。

幸せを考えると、幸せになれるのかな。それもみんなで、一緒に考えましょう。


参加申し込み等について、詳しくは以下のサイトからお願いします。
http://kokorouta.wordpress.com



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