最近いろいろなところで、いろいろな年代の人々と話す機会が多くなっている。
すると、余計なことを説明しなくても話がどんどんと進む人もいれば、どんなに話をしてもまったく噛み合わない人もいる。
いくら意見が違ったとしても、自分の意見を持つことは非常に大切だ。大切どころか、人生において最重要課題と言ってもいいかもしれない。個人の意見がなければ、個性も人間性もなくなってしまう。
しかし日本の社会を考えてみると、自分の意見を持つことは、必ずしも良いとされていない。
「あなたは何がしたいのか」
と聞かれることもあまりないし、人に聞くこともないだろう。
「つべこべ言わずに、とりあえずやるべき事をやりなさい」
という空気が蔓延し、ひとりひとりが何を考えるかは極力排除され、社会のルールや常識が絶対視されている。
このような批判を展開していると、
「それは日本人の民族性なのだから、仕方がない」
と説明する人は少なくない。
日本には日本のやり方があり、個人が自立した西洋型の社会は合っていない、というありがちな意見だ。
私はいつも、それは文化の問題ではなく、人類が共通して直面してきた課題であり、それを西洋とか東洋という言葉で線引きすることがナンセンスだと思っている。
すると、1784年にドイツの哲学者カントが、『啓蒙とは何か』(中山元訳)の冒頭で以下のように述べているのを見つけた。
未成年の状態について、カントはこう説明する
当時のドイツ人に対して「自分の頭で考えることが大事」とカントが力説しているのは、要するに、当時のドイツ人はあまりものを考えていなかった証拠だろう。
「考えないほうが楽だから」という話は、日本人からもよく聞く。
私は確信していることがある。
日本人が議論ができないのは、そういう訓練を受けていないから、ということだ。民族性などは関係ない。だから訓練、つまり教育を受ければいいだけの話なのである。
ひとりひとりが自分の頭で考えれば、自然といろいろな意見が出てくるので、必然的に議論へと発展する。議論がタブーとされる社会は、考える個人が少ない証拠と言っても過言ではないだろう。
人と違う意見は素晴らしいのである。批判は大歓迎すべきなのだ。そうやって、いろいろな意見があつまるからこそ、人類としての英知が積み上がっていくのだ。
自由のうちでもっとも無害な自由を、われわれはもっとエンジョイすべきだろう。そこに洋の東西は関係ない。
永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)
すると、余計なことを説明しなくても話がどんどんと進む人もいれば、どんなに話をしてもまったく噛み合わない人もいる。
いくら意見が違ったとしても、自分の意見を持つことは非常に大切だ。大切どころか、人生において最重要課題と言ってもいいかもしれない。個人の意見がなければ、個性も人間性もなくなってしまう。
しかし日本の社会を考えてみると、自分の意見を持つことは、必ずしも良いとされていない。
「あなたは何がしたいのか」
と聞かれることもあまりないし、人に聞くこともないだろう。
「つべこべ言わずに、とりあえずやるべき事をやりなさい」
という空気が蔓延し、ひとりひとりが何を考えるかは極力排除され、社会のルールや常識が絶対視されている。
このような批判を展開していると、
「それは日本人の民族性なのだから、仕方がない」
と説明する人は少なくない。
日本には日本のやり方があり、個人が自立した西洋型の社会は合っていない、というありがちな意見だ。
私はいつも、それは文化の問題ではなく、人類が共通して直面してきた課題であり、それを西洋とか東洋という言葉で線引きすることがナンセンスだと思っている。
すると、1784年にドイツの哲学者カントが、『啓蒙とは何か』(中山元訳)の冒頭で以下のように述べているのを見つけた。
啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。
未成年の状態について、カントはこう説明する
人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。
当時のドイツ人に対して「自分の頭で考えることが大事」とカントが力説しているのは、要するに、当時のドイツ人はあまりものを考えていなかった証拠だろう。
人間の怠惰と臆病にある。未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。
「考えないほうが楽だから」という話は、日本人からもよく聞く。
あらゆる場所で、議論するなと叫ぶ声を耳にする。将校は「議論するな、訓練をうけよ」と叫ぶ。税務局の役人は「議論するな、納税せよ」と叫ぶ。牧師は「議論するな、信ぜよ」と叫ぶのである。
これなど、今の日本で「つべこべ言うな。やるべきことを先にやりなさい!」とまったく同じだ。18世紀のドイツでは、議論がタブーだったのである。
私は確信していることがある。
日本人が議論ができないのは、そういう訓練を受けていないから、ということだ。民族性などは関係ない。だから訓練、つまり教育を受ければいいだけの話なのである。
ひとりひとりが自分の頭で考えれば、自然といろいろな意見が出てくるので、必然的に議論へと発展する。議論がタブーとされる社会は、考える個人が少ない証拠と言っても過言ではないだろう。
人と違う意見は素晴らしいのである。批判は大歓迎すべきなのだ。そうやって、いろいろな意見があつまるからこそ、人類としての英知が積み上がっていくのだ。
啓蒙には、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。
自由のうちでもっとも無害な自由を、われわれはもっとエンジョイすべきだろう。そこに洋の東西は関係ない。
永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)
今回も読み応えがありました。目崎さんが日本各地で講演や対話されることを望んでいますよ。お願いします!
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