経済発展だけでは人は幸せにならないことに、異論を唱えるひとは少ないだろう。しかし問題は、それ以外で分かりやすい指標がないことだ。
ちなみに先進国では、GDPと国民の満足度に相関関係は見られない。
世界の国際機関や政府は、近年になってGDP以外の指標を模索している。もちろん一番有名なのはブータンのGNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)であるが、フランス、イギリス、そして日本政府も、幸福についての調査を真剣に取り組みはじめている。
「どうやったら幸福になるかは、個人がそれぞれ違うものだから、指標化することはナンセンス」、という意見もあるだろう。
そういった意見をふまえながらも、本当に幸福度を測ることはナンセンスなのか、それとも何らかの指標として作ることができるのか、心理学、脳科学、経済学、統計学など、いろいろな角度からの研究が世界中ですすめられている。
そんな研究者たちに加えて、各国の政策担当者、統計担当者ら約 250人の専門家が12月5・6日に世界中から東京へ集合し、二日間のコンファレンスが行われた。
日本から内閣府経済社会総合研究所(ESRI)、そして「先進国クラブ」と呼ばれるOECD(経済協力開発機構)、アジア開発銀行(ADB)、韓国統計庁(KOSTAT)、国連アジア太平洋経済社会委員会(UNESCAP)と、そうそうたる機関が主催するイベントである。
http://www.measuring-well-being.asia/jp/
そんなコンファレンスに、今回の登壇者のひとりでもある袖川芳之さんの紹介で、私も参加することができた。ちなみに袖川さんは、『幸福の方程式』(ディスカバー携書)の著者である。
会議の当日は内閣府特命担当大臣の古川元久氏のスピーチではじまり、各参加機関責任者、そしてブータンのGNH委員会担当長官Karma Tshiteem氏のスピーチがつづいた。(下記の写真は、ブータンのKarma Tshiteem氏)
当日のプログラムはこちら
その後、3つの分科会に別れ、それぞれのテーマについての議論が行われた。ここからは同時通訳がなくなり、英語のみ。後で聞いた話だが、政府の予算の都合でそうなったらしい。
朝9時から18時まで二日間、じっくりと会議が進められた。
ここで会議の内容をすべて要約するのは無理があるので、印象に残った点だけを簡単に書きたい。
会議に参加した人々に、人生で「幸福」が非常に重要であることは、共通の認識だろう。しかし問題は、幸福をどうやって定義するかだ。
日本語でも「幸福」と「幸せ」は若干ニュアンスが違う。そして英語では、「Happiness」の他に「Well-being」が使われることが多い。各国の文化の違いによっても、それぞれの言葉の意味が違ってくる。ちなみに、このコンファレンスの英語のタイトルは「Measuring Well-Being and Fostering the Progress of Societies」で、Happiness ではなくWell-beingを使っている。
「Happiness」という単語では、あまりにも解釈が広くなってしまう懸念があるので、科学的に判定しようとする場合は、Subjective Well-being (SWB)が使われることが主流となっている。日本語の定訳はないが、主観的満足感、主観的幸福感、もしくはカタカナで主観的ウェルビーイングとでも訳したほうがいいかもしれない。
しかしSWBでもその解釈に仕方にばらつきがあるようだった。会議中でも、そういった部分を指摘する人が何人かいた。
細かい定義や相違を突っ込んでいけば、必ず例外や矛盾がでてくることは否めない。しかし私としては、もっとマクロな視点で統計結果を眺め、そして文化の差ではなく人類共通の部分に的を絞ることで、人類として普遍性のあることが見えてくると考えている。
拙著『幸福途上国ニッポン』は、そういったアプローチで、文化や社会構造によって個人の幸福度に影響をあたえる要因を探ったものである。
登壇者のひとりで、オーストラリアのクイーンズ大学のPaul Frijters教授は、私と似たような考えを持っているようだった。
Paul Frijters氏は190センチほどの長身にスキンヘッド、さらに黒いカウボーイハットを首にかけていたので、会場でもひときわ目立っていた。彼とは、コーヒーブレイクの時に話す機会があった。
私の持論である、日本人の幸福度が低い構造的な理由を説明すると、彼はすぐに「ああ、わかる、わかる。その通りだよ」と、同意をしてくれた。
そして私は、多くの人々に私の持論を説明する際、年齢が高くなればなるほど共感されにくくなっている、という事実も説明した。
すると Frijters氏は、
「そりゃ、そうだよ」
と、当たり前のように言い切った。
「30歳を過ぎた相手は、やめたほうがいいね。時間の無駄だから。だって、例えばなぜ警察官を採用するときに、25歳以下しか募集しないか分かる?25歳をすぎると、他の思考を受け入れることがとても困難になるからだよ。軍隊も同じだよね」
つまり30歳までに経験してきた世界観を、その後に覆すことはほとんど無理ということだろう。
そして彼は、こうも言った。
「君は日本のために、そういう本をどんどん書くべきだよ。日本の若者は、自分が幸せになるための言い訳が必要みたいだから」
よく考えてみると、私の個人的に親しい友人たちは、国籍を問わず、全員が「典型的なナントカ人」ではない。30歳になる前に多くは異文化で生活した経験を持ち、文化や社会を硬直的なものとは考えていない。そして自分や自分の住む社会を、一歩離れた視点で見ようとしている。
そして何よりも、国や文化を超越した人間としての根本的な共通項を見いだしており、それが友人としての絆となっている。
私は、「幸せ」も基本的に同じではないかと考えている。つまり、細かい言葉尻や表現に注目するのではなく、人類として共通に感じる「幸せ」は同じであろう。そして、それが重要と思う心もまた、普遍的な事実であると信じている。
だからこそ、個人の幸せを追求することが、人生にとって一番重要であるということも、また人類共通だと思っている。
もちろん「個人の幸せ」に、自分以外の幸せも含まれるという前提だが。
自分が幸せになれば、自然と他人も幸せにしたくなる。しかし他人のことを優先させてばかりいると、自分はいつまでたっても幸せになれないばかりか、他人も幸せにしない可能性がある。
それもまた、人類の共通項であろう。
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ちなみに先進国では、GDPと国民の満足度に相関関係は見られない。
世界の国際機関や政府は、近年になってGDP以外の指標を模索している。もちろん一番有名なのはブータンのGNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)であるが、フランス、イギリス、そして日本政府も、幸福についての調査を真剣に取り組みはじめている。
「どうやったら幸福になるかは、個人がそれぞれ違うものだから、指標化することはナンセンス」、という意見もあるだろう。
そういった意見をふまえながらも、本当に幸福度を測ることはナンセンスなのか、それとも何らかの指標として作ることができるのか、心理学、脳科学、経済学、統計学など、いろいろな角度からの研究が世界中ですすめられている。
そんな研究者たちに加えて、各国の政策担当者、統計担当者ら約 250人の専門家が12月5・6日に世界中から東京へ集合し、二日間のコンファレンスが行われた。
日本から内閣府経済社会総合研究所(ESRI)、そして「先進国クラブ」と呼ばれるOECD(経済協力開発機構)、アジア開発銀行(ADB)、韓国統計庁(KOSTAT)、国連アジア太平洋経済社会委員会(UNESCAP)と、そうそうたる機関が主催するイベントである。
http://www.measuring-well-being.asia/jp/
そんなコンファレンスに、今回の登壇者のひとりでもある袖川芳之さんの紹介で、私も参加することができた。ちなみに袖川さんは、『幸福の方程式』(ディスカバー携書)の著者である。
会議の当日は内閣府特命担当大臣の古川元久氏のスピーチではじまり、各参加機関責任者、そしてブータンのGNH委員会担当長官Karma Tshiteem氏のスピーチがつづいた。(下記の写真は、ブータンのKarma Tshiteem氏)
当日のプログラムはこちら
その後、3つの分科会に別れ、それぞれのテーマについての議論が行われた。ここからは同時通訳がなくなり、英語のみ。後で聞いた話だが、政府の予算の都合でそうなったらしい。
朝9時から18時まで二日間、じっくりと会議が進められた。
ここで会議の内容をすべて要約するのは無理があるので、印象に残った点だけを簡単に書きたい。
会議に参加した人々に、人生で「幸福」が非常に重要であることは、共通の認識だろう。しかし問題は、幸福をどうやって定義するかだ。
日本語でも「幸福」と「幸せ」は若干ニュアンスが違う。そして英語では、「Happiness」の他に「Well-being」が使われることが多い。各国の文化の違いによっても、それぞれの言葉の意味が違ってくる。ちなみに、このコンファレンスの英語のタイトルは「Measuring Well-Being and Fostering the Progress of Societies」で、Happiness ではなくWell-beingを使っている。
「Happiness」という単語では、あまりにも解釈が広くなってしまう懸念があるので、科学的に判定しようとする場合は、Subjective Well-being (SWB)が使われることが主流となっている。日本語の定訳はないが、主観的満足感、主観的幸福感、もしくはカタカナで主観的ウェルビーイングとでも訳したほうがいいかもしれない。
しかしSWBでもその解釈に仕方にばらつきがあるようだった。会議中でも、そういった部分を指摘する人が何人かいた。
細かい定義や相違を突っ込んでいけば、必ず例外や矛盾がでてくることは否めない。しかし私としては、もっとマクロな視点で統計結果を眺め、そして文化の差ではなく人類共通の部分に的を絞ることで、人類として普遍性のあることが見えてくると考えている。
拙著『幸福途上国ニッポン』は、そういったアプローチで、文化や社会構造によって個人の幸福度に影響をあたえる要因を探ったものである。
登壇者のひとりで、オーストラリアのクイーンズ大学のPaul Frijters教授は、私と似たような考えを持っているようだった。
Paul Frijters氏は190センチほどの長身にスキンヘッド、さらに黒いカウボーイハットを首にかけていたので、会場でもひときわ目立っていた。彼とは、コーヒーブレイクの時に話す機会があった。
私の持論である、日本人の幸福度が低い構造的な理由を説明すると、彼はすぐに「ああ、わかる、わかる。その通りだよ」と、同意をしてくれた。
そして私は、多くの人々に私の持論を説明する際、年齢が高くなればなるほど共感されにくくなっている、という事実も説明した。
すると Frijters氏は、
「そりゃ、そうだよ」
と、当たり前のように言い切った。
「30歳を過ぎた相手は、やめたほうがいいね。時間の無駄だから。だって、例えばなぜ警察官を採用するときに、25歳以下しか募集しないか分かる?25歳をすぎると、他の思考を受け入れることがとても困難になるからだよ。軍隊も同じだよね」
つまり30歳までに経験してきた世界観を、その後に覆すことはほとんど無理ということだろう。
そして彼は、こうも言った。
「君は日本のために、そういう本をどんどん書くべきだよ。日本の若者は、自分が幸せになるための言い訳が必要みたいだから」
よく考えてみると、私の個人的に親しい友人たちは、国籍を問わず、全員が「典型的なナントカ人」ではない。30歳になる前に多くは異文化で生活した経験を持ち、文化や社会を硬直的なものとは考えていない。そして自分や自分の住む社会を、一歩離れた視点で見ようとしている。
そして何よりも、国や文化を超越した人間としての根本的な共通項を見いだしており、それが友人としての絆となっている。
私は、「幸せ」も基本的に同じではないかと考えている。つまり、細かい言葉尻や表現に注目するのではなく、人類として共通に感じる「幸せ」は同じであろう。そして、それが重要と思う心もまた、普遍的な事実であると信じている。
だからこそ、個人の幸せを追求することが、人生にとって一番重要であるということも、また人類共通だと思っている。
もちろん「個人の幸せ」に、自分以外の幸せも含まれるという前提だが。
自分が幸せになれば、自然と他人も幸せにしたくなる。しかし他人のことを優先させてばかりいると、自分はいつまでたっても幸せになれないばかりか、他人も幸せにしない可能性がある。
それもまた、人類の共通項であろう。
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同感です。まったくその通りだと私は
返信削除50才を過ぎてますが、これからも変わりますよー
幸せをどんどん追求していきます!