2010年10月18日月曜日

不良社員に、会社の責任はあるか


七十七銀行の行員である門脇大貴(26)容疑者が、住居侵入と盗みの疑いで仙台北署に逮捕された。(2010年10月17日)
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/10/20101017t13015.htm

仙台市青葉区の女性(81)方に、勝手口の窓ガラスを割って侵入し、室内の現金約18万円を盗んだ疑いである。門脇容疑者は「消費者金融に借金があった」と容疑を認め、数件の余罪をほのめかしているという。

しかしここで気になったのが、

「行員が逮捕される事態となり、誠に申し訳ない。深くおわびするとともに、警察の捜査には全面的に協力する」
とコメントを発表した、七十七銀行である。

行員が逮捕されることは、銀行にとってマイナスのイメージがあることは間違いないだろう。ちなみに七十七銀行とは、宮城県仙台市に本店を置く東北地方最大の地方銀行だ。そこで銀行としては、火消しに奔走しているのかもしれない。

しかしよく考えてみると、この逮捕された行員は銀行の金を横領していたとか、銀行の名前を語って詐欺をしていたわけでもない。つまり逮捕された人物がたまたま銀行員であったということで、容疑者の職業と容疑のかけられた犯罪には直接関係がない。

はたして、「誠に申し訳ない。深くおわびする」と謝罪する銀行側には、責任があるのだろうか?
もしも責任があるとすれば、事前に何をしていれば「銀行の責任ではない」と、胸を張って主張できるのだろう?

ひとりの成人した個人が、労働力を提供するために会社と契約を結んでいる以上、その個人のプライベートでの行動まで責任を取ることは難しい。もしも会社が社員のプライベートにまで責任を持つ必要があるならば、会社には社員を24時間徹底的に管理する義務が必要となってくるかもしれない。もちろん、そんな会社を望む者はどこにもいないだろう。

「連帯責任」という考えが、こういった行動の背後に見え隠れする。



確かに日本では、犯罪者の家族に限らず、親戚までが非難を浴びてしまう風潮がある。そこで七十七銀行のコメントは、必ずしも銀行側だけに問題があるとも思えない。

もしかすると、銀行側では本心としてまったく責任がないと考えているのにもかかわらず、世間からの非難を回避するために、先手をとって謝罪したのかもしれない。波風を立てないためにも、とりあえず謝っておこう、という心理が働いたとも推測できる。

しかし、本来ならば責任がないはずの人々が社会的責任を追求されるという風潮は、非常に危険な要素を内在している。犯罪者の家族や親戚が自殺に追い込まれるという事件なども、そのひとつである。

個人と、その個人が帰属する集団との責任問題について、もうすこし考える余地があるのではないだろうか。

もしも、隣に住んでいたという理由だけで、隣人の犯罪の責任を追及されたら、理不尽と思う人は多いだろう。自分自身でコントロールできないものにまで責任を追及されるのは、非常に理不尽な社会である。人種差別や性的差別なども、心理構造としては同じである。人種も性別も、自分で選ぶことはできないのだから。


七十七銀行にとって、行員がプライベートの時に起こした不祥事の責任を取らされるならば、非常に理不尽な話である。そして非難されるかもしれないからと、先に謝ってしまうというのも、結局は「連帯責任」という理不尽な風潮を肯定することになる。

社会の風潮は、市民の意識が変わることでどんどんと変化していくものである。そこに明確な意志と、誰もが納得できる理由さえあれば、自発的に変えていくことも可能だろう。



少なくとも、そうやって今までの社会が変わってきたことは間違いない。





2010年10月16日土曜日

哀愁と喧噪のブエノスアイレス

夜中の12時を過ぎるころ、ようやく会場では活気が生まれてくる。センチメンタルなメロディーに、鋭いスタッカートの効いたタンゴの旋律が、高い天井でこだまする。

上半身をぴたりと寄せ合った男女の群れは、楽曲のパートでも演じるかのように、ダンスフロアをゆっくりと反時計回りにながれていく。若い女性と白髪の男性。年配の女性と若い男性。十代のカップル。長年連れ添ってきた老夫婦。

それぞれの男女が、それぞれの思いを込めて、「数分間の恋」という悦にいる。

南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、人生を謳歌する者に、年齢や性別、そして時間も制約しない街である。ミロンガとよばれるタンゴを踊るサロン、そして若者の群れ集うクラブでは、平日でも早朝まで、毎晩活況に満ちている。

劇場や映画館は人であふれ、レストランやバー、そして街角のカフェでも、あらゆる年代がその時間を満喫する。東の空がうっすらと明るくなる午前5時、まだ平日というのに、ブエノスアイレスの活力に衰えは見えない。

「南米のパリ」と称されるブエノスアイレスは、アールヌーボー様式の影響を受けた建物が並び、奇麗に区画整理された市街の街路樹は、緑であふれている。一瞬、パリかと錯覚するほどだ。これほどヨーロッパ的な都市は、他の南米諸国にはない。

スペインに次いでイタリアからの移民も多く、生パスタを製造・販売している家族経営の小さな店舗を街のあちこちでよく見かける。また多くのレストランでは、年季の入った石窯を使い、薪で焚いたあつあつのピザが定番だ。そしてアルゼンチン人の話すスペイン語も、リズミカルなイタリア語のなまりがとても強い。

アルゼンチンはワイン大国でもある。生産量がフランス、イタリア、スペイン、米国に次いで世界第5位という事実はあまり知られていない。

アルゼンチンワインの特徴は、豊潤な香りを持つ赤ワイン「マルベック種」だ。しかし生産される9割以上は、国内で消費されている。7割を輸出している隣国チリとは、とても対称的ともいえる。

そしてアルゼンチンの人々は、週末になると友人や家族で集まってバーベキューを楽しむことが伝統となっている。もちろん100%アルゼンチン産の牛肉だ。おまけに鶏肉よりも値段が安い。このような牛肉中心の食文化が、アルゼンチンの旺盛なワイン消費を支えている。

世界を長年旅していた私は、ブエノスアイレスで一年ほどの時を過ごした。中南米では必要不可欠なスペイン語を学びながら、アルゼンチンタンゴをたしなんだ。

そんなある日、私はいつものようにローカルバスで市内を移動していた。荒っぽい運転で有名なブエノスアイレスのバスは、急発進や急加速が当たり前で、乗車中はどこかにしっかりとつかまっていないと車内で転げ回ることになる。

前席の背もたれにあるパイプを右手で握りながら座っていた私の近くに、白髪のおばあさんが乗り込んできた。私はすぐに席を立ち、おばあさんに私の席をすすめた。するとおばあさんは無言で、あたかも当然のように私の席に座った。

「ありがとう」のひと言もなければ、笑顔のかけらもなかった。

ブエノスアイレスの公共交通機関では、年配者は乗車すると真っ先に若者の座る席に近づき、若者たちは当たり前のようにその席をゆずる。そこには、ほとんど会話のやりとりはない。

若者はそそくさと席を立ち、年配者たちはまるでそこに自分の名前が書いてあるかのように席につく。「優先席」という表示はどこにもないが、実質的にはすべての座席が優先席なのである。

そして当たり前のことが当たり前のように行われているだけなので、多くの人にとって、ゆずってくれた人に感謝をするという発想すらないようである。


ブラジルに次いで南米で2番目に大きな領土を持つアルゼンチンは、かつて世界有数の富裕国だった。ただし、それは100年前の話である。

当時アルゼンチンのひとり当たりGDPは、同じ時期の日本の2倍もあった。しかし現在のそれは、今の日本の半分以下となっている。第二次大戦後の、産業構造が変化していく世界に取り残されたという大きな潮流の中、軍部のクーデターによる政権闘争が1980年代前半までつづいたこと、そしてたび重なる経済政策の失敗が追い打ちをかけ、アルゼンチン経済は衰退の一途をたどった。

2001年にはとうとう政府が破綻し、翌年の失業率は25%まで跳ねあがった。そのため多くの国民は職を求めて、スペインやイタリアへ渡っていった。

近年では失業率が9%を割るまで低下してきているが、隣国ブラジルのような新興国の勢いはない。そもそもアルゼンチンは発展途上の国ではなく、ありし日の繁栄の面影を残す、衰退途上の国なのかもしれない。

アルゼンチンは、中南米諸国に特有の貧富の差が非常に大きい。治安については、ブラジルやベネズエラほどの凶悪犯罪は多くないが、窃盗や汚職などは日常茶飯事である。

海外からアルゼンチンへ郵便物を送ると、きちんと手元に届く可能性は非常に低い。また国際空港でも、乗客が預けた荷物を空港の従業員が盗む事件などは毎日のように起きている。これまで何人も逮捕者が出ているが、どうやら大きな犯罪組織が裏に絡んでいるため、警察も癒着関係にあるようだ。

ちなみに、各国がどのくらい腐敗しているかを調査するNGO「トランスペアレンシー・インターナショナル」によると、アルゼンチンの腐敗認識指数は175ヶ国中105位と、世界的に見ても腐敗度が非常に高い。(注:腐敗度の少ない国が上位となる。日本は17位。1位はニュージーランド、2位デンマーク、3位スウェーデン)

このような統計上の数字を見ていくと、アルゼンチンの問題点を探すのはとても簡単だ。しかし、ひとつだけ注目したい事実がある。それは、アルゼンチン人の幸福度が、日本人よりもかなり高いということである。そしてこの事実は、ラテンアメリカ全般にも共通している。

日本の半分以下の富しかなく、日本よりも格段に大きい貧富の格差があり、治安も悪く、失業率も慢性的に高く、そして社会全体にどうしようもないほどの腐敗がはびこっている。そんな社会に住む人々が、日本人よりも幸せだと言っているのである。いったい、これはどういうことなのか。

ラテンアメリカの謎については、これから解明していくことにしよう。しかし少なくとも、ここでひとつだけ言えることがある。

私が出会った数多くのアルゼンチンの人々は、年齢や性別に関係なく、それぞれが人生を楽しむ術を知っており、それを実現することに躊躇しないことである。

彼らの実感している幸せに、決して偽りはないだろう。

2010年10月3日日曜日

論理という魔法

「議論」というと、「理屈っぽいおじさんたちが、ああでもない、こうでもないと、時には屁理屈をいいながら騒いでいる」という印象を持つ人がいるかもしれない。

議論は堅苦しく、また疲れるから嫌いだという人もいるだろう。そもそも議論などは、時間の無駄だと思う人もいるかもしれない。

どんなに話し合っても、理解しあえないことはある。どれだけ議論をつくしても、時には合意に達せないこともある。いくら頭をひねって考えても、言葉で説明できないこともある。だから言葉を超えた理解も必要だろう。

しかしながら、だからといって議論を軽視すると、大きな問題も生じてくる。それは人と人とが理解しある根幹の部分に、「論理:ロジック」という魔法のシステムがあるからだ。

論理とは簡単にいうと、人類が普遍的に共通した理解を共有できる思考のシステムである。もっと簡単にいうと、論理とは人が「わかった」と感じるシステムだ。これは世界各国、どこの文化でも、人類すべてで同じように理解されている。よく「人それぞれ論理が違う」とか、「あなたの論理と私の論理は違う」という発言を耳にするが、論理自体が人によって違うことは決してない。人によって情報量と、そこから結論に結びつくまでの過程が違うのであって、「論理という構造」は誰にとってもまったく同じであり、人類共通の普遍的なシステムなのである。

たとえば、算数がその典型だ。1+1=2であることは、どこの世界でも、どこの文化のどの人種でも、共通して同じ理解をしている。文化や人によって1+1=3になるとか、1+1=5となることはない。そして1+1=2だから、2+2=4だということも、万国共通で理解されている。この因果関係を理解するシステムが、論理といわれるものの根幹となっている。

しかしながら、人類にはひとつの大きな課題がある。私たちは常に、論理的な間違いを犯すということだ。たとえば、ランダムに集めた100人の集団に、数学のテストを解いてもらうとしよう。それを何度かくりかえすとする。出題される問題の難易度にもよるが、100人全員が常に100点満点をとりつづけることはまずない。必ずどこかで、誰かが不正解を出すので、平均点は100点以下になる。どんなに簡単なテストでも、テストを受ける人数が多ければ多いほど、平均点は100点以下になる確率は高くなるだろう。

しかしここで重要なポイントは、みんなが不正解を出すことではない。注目してほしい点は、テストで不正解であっても、それが後で答え合わせをした時に、全員が「不正解だ」と認識できることである。たとえテスト中は間違えても、最終的にはみんなが一緒に「正解」という共通なものを理解することができる。

もちろん、超難解な高等数学などは、いくら解答を説明されても、理解できない人もいるだろう。しかし時間をかけて、ひとつひとつをゆっくりと説明し、段階を追って徐々に理解度を上げていけば、最終的には誰でも理解することができる。理解できないのは、それだけ時間をかけて説明する人がいないか、もしくは理解しようと努力することを怠っているかのどちらかである。

つまり人類の思考には、必然的に「論理的な間違いを犯す」という特徴とともに「論理的な間違いを修正する能力」があり、最終的に人類すべてで共有した理解へたどり着くことができるという特徴があるのだ。

論理的な間違いとは、勘違いも含まれる。しかしこれも、後に「勘違い」だったと気づくことができる。それは数学の間違いを修正するように、論理的な間違いや勘違いを修正するということだ。こういった論理の根本的な特徴があるため、対話をしながらしばらく議論をつづけていくと、お互いの論理的な間違いを修正しあうことが可能となってくる。そして最終的には、みんなが共有した結論へと結びつけることができるのだ。

しかしながら、ここであまりに楽観的になるべきではない。残念なことに、世の中はそう単純にはできていないからだ。どんなに議論をつくしても、合意に達しないことがある。それはなぜだろう。

情報と論理の関係

何かを考える時に非常に重要となる点は、「情報」である。たとえば先に述べた1+1=2という例題があるが、これを「水温1度の水と、もうひとつ水温1度の水を合わせたら、合計で何度になるか」という質問に変えたら、どうなるだろう。

答えは言うまでもなく、1度である。しかし何の説明もしないで「1+1=?」という質問であれば、当然答えは2だ。それが「1+1=? ただし、1は水温1度を表す」と表記してあれば、答えは1となる。つまりこのふたつの問題の違いは、論理の問題ではなく仮定条件の違い、つまり解答する者に与えられる情報の違いなのである。

水温の問題であっても、ただし書きを読まなければ、誰でも正解を2だと思うだろう。くりかえすが、この両者の問題は「違う論理」でつくられたのではない。論理、つまり解を導く思考の方法はまったく同じだが、途中経過で与えられている情報が違うだけなのである。

情報量の違いによって違う結論に達することは、議論をする際に常に起こる問題である。人それぞれ、生まれてから蓄積してきた情報量がまったく違う。そこでいくら頭のキレがよく、論理的な間違いを一切犯さなくても、まったく違った結論になることがある。

たとえば、実際に私が体験したことで、次のような出来事があった。

ある日の昼下がりに、屋外の競技場で友人とスポーツ観戦をしていた時のことだ。日差しの強い真夏日だったので、午後の日差しを避けるためには、どこの席が最適かと、私は友人と話し始めた。いろいろな諸条件、つまり現在の太陽の位置と時間、東西南北がどちらかという競技場の位置関係、そして競技場の壁の高さと場所を考慮して、私たちは予測をし始めた。しかしいくら話が進んでも、いつもは非常に頭の回転が速い友人が、今回ばかりは意味不明で、私にとってちんぷんかんぷんな主張をしていた。すると、ふとある事実に気がついた。友人はオーストラリア人だったのである。つまり南半球にあるオーストラリアでは、太陽の動く方向が北半球とは逆になる。私たちのいた競技場はヨーロッパだったので、結果的には私が正しかった。しかし、もしもそこが南アフリカのヨハネスブルグであったならば、私も気がつかずに友人と同じような主張をしていただろう。

どんな人でも、必ず論理的な間違いを犯すことがある。しかし不思議なことに、それを間違いだと認識して修正する能力も備えている。そしていくら論理的に正確であったとしても、情報の差によって結論が違ってくる。そこで、このふたつの事実を同時に有効利用する方法がある。それが「議論」なのだ。議論をつづけることは、お互いに持っている情報を交換しあうだけでなく、論理的な間違いの修正もされていく。さらに議論がすすむにつれて、お互いに何の情報が欠けているかが明確になってくる。

相手に自分の持つ情報を伝えあうという作業をつづけると、そのうちにお互いの情報量が均衡へと近づいていく。「議論が出尽くす」という状態になった時は、その議題について双方の持つ情報量がほぼ均衡したことであり、また論理的な間違いも最小限度まで修正されているはずである。参加者が多ければ多いほど、論理的な修正の精度が上がってくるが、その一方で、参加者全員が均衡した情報量に達するのは難しくなってくる。それを解決するためには、時間をかけるしかない。時間をかけて、じっくりと議論を進めれば、そのうちに合意点へと収束されていくのだ。この方法は、古代ギリシャ時代の哲学者ソクラテスが実践したといわれ、対話法もしくは問答法とよばれている。

また議論をすることで、お互いに情報交換ができるのと同時に、思考が刺激されることで、お互いの知的レベルが上がることは間違いない。そうして知的レベルが上昇した者同士が議論をすることで、さらなるレベルの向上が可能となってくる。

1+1=2という事実を、なぜ人類が共通して理解できるのかという詳細なメカニズムはまだ解明されていない。しかしこれからさらに人間の脳の研究がすすむことで、将来的にはすべてが解明される日が来るだろう。いずれにせよ、私たちが「論理」という共通したツールを持っていることは間違いない。人と人が理解しあるために必要不可欠であるこの「論理」を生かすも殺すも、議論次第なのである。

世代、性別だけでなく、国境や文化を超えて人が人と理解しあうには、論理という共通項を利用するしかない。しかし議論をするという努力がなければ、論理の間違いが修正されず、また偏った情報を持ち合うことで、お互いにすれ違いで終わってしまうだろう。本当に理解しあいたいならば、本気で対話や議論をしてぶつかりあうことこそが大道なのである。

以心伝心では、決して達成されることはない。