2011年9月13日火曜日

共感の文明 - 個人の利益と社会の利益のありかた

たとえば映画を観ていると、自分がすっかり主人公の気分になることがある。
また、人の悲しむ顔を見ると、自分も悲しくなってくることもある。

こうした人への共感感情移入は、人間としてごく普通の行為だろう。

共感(Empathy)することは、実は人類の文明でも非常に重要な役割を果たしてきた。そして、「個人の利益」「社会全体の利益」の両方をうまく達成させるには、共感がひとつの大きなキーワードになるのではないか。

共感するという行為がどのように進化し、そして将来はどのような役割を担うべきか、アメリカを代表する文明評論家ジェレミー・レフキン氏が、以下のビデオで非常に分かりやすく解説をしている。

(残念ながら、日本語字幕が付いたバージョンがないので、こちらは英語のみ)


以下、要約です。

共感するという行為が脳の機能として理解されたのは、ある実験の偶然の結果だった。猿の脳ミラー・ニューロンと呼ばれる神経細胞が発見され、人間にも存在することがわかった。

ミラーニューロンは、他人の喜怒哀楽を、あたかも自分が体験しているように感じることを可能にする。

人間にはいくつかの根本的な欲求があるが、「何かに属したい」という欲求は非常に強い。

生まれたての赤ちゃんは、一人が泣き出すと、つられて全員が泣き出す

そして8歳ぐらいになると、「生と死」について理解できるようになる。それが存在という旅の始まりになる。

他人に同情することは、結束することにつながってくる。共感とは、ユートピアの正反対に位置している。つまり天国には共感は存在しない。なぜなら、天国には「死」「苦しみ」も存在しないから。

つまり共感とは、死を認知して、生命を祝うことなのである。それは、私たちのもろさ不完全さが基盤となっている。

いかにして私たちの意識人類の歴史を変えてきたかを考えると、共感は「見えざる手」なのである。

共感することは文明化であり、文明化は共感することである。

初期の人類にとって、共感する相手は血のつながった、自分の部族だけだった。

それが文明の発達とともに、ユダヤ人同士キリスト教同士といった、同じ宗教である人々に共感するようになった。

産業革命後、それが国民国家へと広がっていった。19世紀以前には「ドイツ」「フランス」といった概念は存在していない。それが、ドイツ人、フランス人という共感できる対象となった。

つまり、「血縁」=>「宗教」=>「国籍」 という順序で共感する範囲が広がっていった。

では将来的に、私たちは国籍を超えて、「人類」すべてに共感できるだろうか。

実際の例として、ハイチで大地震が起きたとき、世界中の人々はハイチの人々に同情している。

175,000年前に最初の人類がアフリカで誕生したとき、人口はわずか一万人ほどだった。その子孫として、現在の私たちのDNAには、すべての人々に同じ母親から受け継がれたミトコンドリアDNAが共有されており、同じ父親から受け継がれたY染色体が宿っている。

私たちは、人類すべてが大きな家族の一員であると考え始める必要がある。それは人類だけでなく、すべての生き物、そしてすべての生物圏まで広げる必要がある。

さもなくば、人にとっての他の欲求である「ナルシズム」「物質主義」「暴力」「攻撃」が人類を支配してしまう危険性がある。

共感の文明を創りあげていくことがこれからの私たちの大きな課題である。


私の提唱している「社会個人主義」は、個人の利益を追求する先に、社会的な利益との融合があることが基盤となっている。

社会性を強要されるのではなく、あくまで自発的に、社会的な活動を促すのである。

責任感義務感ではなく、「自分が幸せになるから」という理由で社会貢献できる社会を目指すべきだろう。

共感するという行為は、それを可能にすることを示唆している。

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