2011年6月23日木曜日

幸福度指標は無駄なのか?

「国民の幸福など測っても無駄です。そもそも幸せは測れないもの」と、幸福度指標元世界銀行副総裁の西水美恵子氏が語っている。

「国民総生産は生産物を市場価格に換算して足し合わせる。ところが幸福は人それぞれ、市場価格などで換算できず足し算できない。『測れるものは必ず管理される』という言葉があります。国民の幸福を無理に数値化すると、国が間違った指標を管理しようとして危険なことになります」
http://www.nikkei.com/news/interview/genre/article/g=96958A96889DE2EBE7E4E5E4E4E2E0E2E2E4E0E2E3E2869180E2E2E2;p=9694E3E3E2E1E0E2E3E2E7E4E4EB

うーん。
確かに西水氏の発言には一理ある。しかし彼女は、「幸福度指標」と「個人の人生の満足度」を同じだと考えているのだろうか。

「幸福度指標」として政府が、たとえば識字率、自殺率、親しい友人の数、収入、・・・等々の基準で幸福度を測ろうとすると問題はあるだろし、危険なこともあるだろう。ひとそれぞれ、どうやって幸福を感じるか千差万別なのだから。

しかし「人生の満足」はどうだろう。これだと、「何によって満足したか」は問われない。人生をアクティブに満喫しようが、家でゲームをやっていようが、結果として「満足しているかどうか」だけの問題になる。

では、「満足度の基準」がひとそれぞれ、まったく違うことはありうるだろうか。

ひとりひとりの「満足度」の基準が違うとすると、それを足し合わせても意味がないことになる。すると、顧客満足度が高いお店や会社には、まったく信憑性がないことになる。本当にそうだろうか。

現実は、「満足度」という尺度自体は、ほとんどの人が共有している傾向がみえる。調査する人の数が増えれば、統計的な意味合いも高くなるだろう。

もっと簡単な話、私が「80%嬉しい」と感じる80%と、他の人が「80%嬉しい」と感じる「80」という数字は、非常に近いということだ。私の90%が、ある人の10%と同じであるとは考えにくい。

したがって「幸福度指標」といっても、少し気をつけなければならない。
政府が勝手に、「これと、これと、これが国民を幸福にするから、これらをやりなさい」といった指標であるならば、非常に危険であり、そんな指標はいらないと思う。この点は、西水氏に同意できる。

しかし、「幸福度指標」が「人生の満足度」であるならば、話は別だろう。

この世の中に満足したくない人などいない。違うのは満足する方法であって、「満足したい」という欲求は人類共通どころか、生き物すべてに共通している。

だからこそ、個人の満足度が高くなる社会を目指す、という意味で「幸福度」を指標にするならば、それは社会的にも非常に有意義ではないだろうか。

でも、ここで大きな問題が出てくる。

どうすれば個人の満足度が高くなる社会になるのだろうか。

キーワードは、個人に寛容な社会
そして個人の自由が認められている社会。
それはまた、次の機会に書きます。

もしくは、拙著『幸福途上国ニッポン』を参照してください。


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