2010年9月12日日曜日

幸福度について: アジアと日本の限界

日本の幸福度と比べて、似たような結果が出てきた国々がある。
韓国、台湾、香港の東アジアと、シンガポールだ。

幸福度を調査する方法は、大きく分けて2つある。ひとつは、直接本人に「どれだけ幸福か」もしくは、「どれだけ生活に満足しているか」と尋ねる方法で、主観的幸福度と呼ばれる。
ここでは、「内面的な幸福度」と呼ぶことにする。

もうひとつは、平均寿命、ひとり当たりGDP、成人識字率、就学率などを基本データとして導き出されるもので、代表的なものに国連の人間開発指数(HDI:Human Develeoment Index) や、英紙『エコノミスト』の生活の質指数(QLI: Quality of Life Index)がある。これらは、本人の主観がまったく考慮されていないので、「外面的な幸福度」と呼ぶことにする。

シンガポールと香港は、ひとり当たりGDPが現在では日本よりも高い。生活の質指数(QLI)では、シンガポールは11位と、日本の18位よりも上位につけている。しかし内面的な幸福度を見てみると、どの統計結果でも、韓国、香港、台湾は、日本よりもさらに低い順位となっている。シンガポールのみが、内面的な幸福度が日本よりも若干上位につけている。

以下は、外面的と内面的データによる、東アジアとシンガポールの調査結果である。

<外面的な幸福度>


 国連・人間開発指標(179国): 
日本8-9位、韓国26位、香港24位、シンガポール23位、中国92位

 生活の質指標(111国):    
日本17位、韓国30位、香港18位、台湾21位、シンガポール11位、中国60位


<内面的な幸福度>

 レスター大学調査(178国)
日本88-91位、韓国100-103位、香港61-70位、台湾61-70位
シンガポール50-55位、中国81-87位

 ワールド・バリュー・サーベイ(97国)
日本43位、韓国60位、香港61位、台湾47位
シンガポール30位、中国52位

 ワールド・データベース・オブ・ハピネス(146国)
日本49-50位、韓国65-69位、香港65-69位、台湾60-62位
シンガポール35-37位、中国58-59位


さて、東アジアと呼ばれる日本、韓国、台湾、香港、中国、そして、それに加えてシンガポールに共通するものは何だろう。

もちろん、地理的な近さが挙げられる。しかしシンガポールは、東南アジアに位置するので、マレーシアやインドネシアのほうが近い。では、文化的な共通点はどうだろう。アジアの国々が、歴史的に古くから密接に関わっていることは確かである。

日々の生活から政治的な問題まで、人々の精神に大きな影響を与えているのは、やはり宗教観だろう。そして上記した国々に共通する宗教とは、三教といわれる儒教、仏教、道教である。(シンガポールは、人口の75%以上が華人)

その中でも儒教は、仏教や道教とは決定的に異なっている点がある。それは、儒教が社会性や政治性といった「社会組織の原理」を説いていることである。そして儒教の説く社会性は、主に集団主義を意味している。

集団主義とは個人主義と正反対に位置するもので、定義としては比較的に広く使われることが多い。社会主義や共産主義、そして全体主義のスローガンとしても使われることがあった。もっとわかりやすくいうと、個人が自分の利益ではなく、他人や社会の利益を優先して行動をすることで社会全体が豊かになり、それが最終的に個人にも有益となる、という発想である。

社会という集団生活では、個人が他者のために協力することは必要不可欠である。そこで、ひとりひとりが少しずつ我慢することで社会全体が豊かになるという発想は、とても効率的に聞こえる。そのうえ、近代の東アジアにおける急速な経済発展を考えてみると、儒教的精神と経済発展には密接な関係があると推測する説もある。

実際に日本を始めとして、香港、シンガポール、台湾、韓国、そして最近では中国の経済は、世界の平均的なレベルと比べても段違いの急成長を果たしてきた。規律を守り、自己を犠牲にしてでも社会のために尽くすという精神は、産業革命以後の工業化には最適であったのだろう。こうした経済発展は集団主義のおかげといっても過言ではないのかもしれない。

ドイツの社会・経済学者マックス・ウェーバーは、西洋社会の資本主義を発展させた大きな理由として、キリスト教のプロテスタント派の中で、カルバン派の合理性と労働倫理が大きく貢献したと論じている。

形式にこだわるカトリックと違い、合理的でかつ労働すること自体を美徳としていた勤勉なカルバン派の影響が、イギリスを始めとする産業革命へと導いていったということだ。世界のどの国を見ても、宗教からくる価値観が経済発展に与える影響を無視できないだろう。それは人々の生活において、行動の原則となる善悪を判別する際に、宗教の価値観が大きく関与しているからでもある。

ただし、アジアでも儒教の影響をほとんど受けていない国々もある。

人口の90%以上がキリスト教徒であり、そのうち83%をカトリック教徒が占めるフィリピン、世界最大数のイスラム教徒を抱えるインドネシア、ヒンズー教徒が多数を占めるインド、そして上座仏教徒のタイ、カンボジア、ラオス、スリランカ、ミャンマーである。

これらの国のひとり当たりGDPを見てみると、儒教国とは大きな差があることがわかる。

フィリピンとインドネシアのひとり当たりGDPは、それぞれが約30万円、そしてインドは約25万円、タイは約70万円、カンボジアは約18万円、ラオスは約20万円、スリランカは約42万円、ミャンマーは約10万円と、いずれも100万円にも満たない。それに比べて、日本は約300万円、韓国は約250万円、香港は約380万円、台湾は約270万円、そしてシンガポールは約445万円と、差は歴然としている。


マレーシアのひとり当たりGDPは約120万円だが、人口の約25%を占める中国系の人々の役割は絶大なものがある。

マレーシアの経済誌『マレーシアン・ビジネス』によると、マレーシアでの個人資産総額上位10人のうち、8人が中国系だと発表している。マレー系人口が約65%(インド系は約7%)という事実からしても、中国系の影響は尋常ではない。さらに、タイにおける中国系人口が約14%であることから、周辺国よりも若干経済発展が進んでいるのではないかという推測もできる。実際に、タイ経済における中国系の存在感は非常に大きい。やはり儒教的精神の影響を受けた国々が、近年において飛躍的な経済発展を遂げていることは紛れもない事実なのである。

しかし例外として、北朝鮮と中国がある。

北朝鮮のひとり当たりGDPは約16万円、中国は約60万円である。共産党の一党独裁政権である中国と北朝鮮では、同じく共産主義圏であった東欧や旧ソビエト連邦とともに、過去に経済が大きく停滞した。しかしソ連が崩壊した1991年以後、中国はそれまで一部に限定されていた市場経済をさらに強く押しすすめた。そして最近の目まぐるしい中国の経済発展は、周知の事実である。しかし北朝鮮については、いまだに閉鎖的な独裁政権を維持しているので、世界でも最貧国のひとつに属している。

つまりここから推察できることは、たとえ儒教的精神を持った社会であっても、国の政治体制の違いによって、経済発展の度合いがまったく違ってくるということだ。そして経済発展に必要不可欠な政治体制とは、やはり市場経済が基本であることは間違いない。そして儒教の影響を受けた国家で、市場経済を導入した国は、すべてが急速な経済発展を果たしているという事実は見逃すことができないだろう。

その一方で、いくら急速な経済発展をしても個人の幸福度が上がらないという点も、儒教国に共通している。

ただしよく考えてみると、これは集団主義の精神と矛盾していない。つまり個人より集団が優先されることで社会全体を豊かにするという集団主義の発想は、たとえ社会が豊かになっても、基本的な精神は急には変わらない。そこで個人より集団が優先されるというシステムは、社会が豊かになった後も継続されていく。

そもそも「社会全体の豊かさ」とは曖昧なものであり、それを「富の蓄積」とするならば、いくら富を蓄積しても終わりがない。実際に日本は世界で第2位の経済大国にまで登りつめたが、「ここで経済発展を終わりにしよう」という話にはならない。そこで集団主義の社会体制がつづき、個人を軽視するために個人の幸福度については、ある程度以上で頭打ちとなってしまう。

最初から「個人の幸福」が優先されていないので、個人の幸福度が高くならないのは当然である。それに比べると、個人主義的な社会とは、個人が優先される社会である。つまり個人の幸福を追求するために最適な社会をつくるという考えである。

そもそも「個人の幸福度を高める」という発想自体が、個人主義的な考えである。そこで集団主義社会での個人の幸福度は、いくら社会全体が豊かになろうとも、個人主義社会には決して追いつくことはないだろう。

これは当たり前といえば、当たり前の話である。

ひとりひとりが我慢しあってできた集団は、全体が豊かになれば個人も幸福になる気がする。しかしフタを開けてみると、ひとりひとりが我慢しつづけるかぎり、ひとりひとりの幸福度もある程度以上は上昇しないという、まったく矛盾した結果になってしまう。それは最初から、個人の幸福を追求するという社会構造ではないからだ。

個人の幸福よりも、社会の秩序が優先されるのが集団主義の根本原則なので、至極当然の結果である。日本は、もうそろそろ集団主義から次のステップへと移行してもいい頃ではないだろうか。

少なくとも、いくら社会の改革を叫んだところで、「長いものに巻かれろ」や「事なかれ主義」といった、基本的な姿勢としての集団主義から脱却しないかぎり、日本の幸福度も上昇しないということだろう。