2012年1月16日月曜日

説明しないことが奨励される社会の、大きな代償

<以下の文は、言論プラットフォームアゴラにも掲載されています>


「黙って、とりあえずやりなさい」
という表現をよく耳にする。

そしてブルース・リーの「頭で考えるな、肌でつかめ」は有名だ。
こういった姿勢はスポーツだけでなく、日本では勉強や社会道徳を学ぶことにも使われている。

しかし、これには実はとてつもなく大きな代償があることを見落としている。

たとえば、格闘技の世界を考えてみる。
格闘技で相手と対戦するとき、いちいち頭で考えている時間はない。反応するスピードが遅くなるからだ。だからこそ「肌でつかめ」の感覚を取得することは、達人の域に入ることになる。

しかし私が高校一年生で空手を始めたとき、先輩はきちんと「なぜ空手の突きは破壊力があるか」を、力学的に説明してくれた。全身のすべての筋力を効率よく動かすことで、パワーすべてを拳に集中する方法だ。「正拳突き」の威力は、単なる筋力の結果ではない。

技を取得する前に、理論的な裏付けに充分納得できただけでなく、なんとなくイメージも湧いたので、私は練習に没頭することができた。そのうちに、「どうすればもっとパワーのある突きや蹴りを出せるか」を、自分でも考えはじめるようになった。

もしも「リクツじゃない。黙って従いなさい」と言われ、ろくな説明も無しに練習をさせられていたら、私はあまり空手に魅力を感じなかっただろう。

そうはいっても最終的には、身体にしみ込むほどくり返し練習することで、「肌でつかめ」という感覚に達することは間違いない。しかし私が問題にしているのは、一番最初にどうやって意思決定をしているか、という点である。

別のたとえを考えてみる。ダンスの場合だ。
多くの日本人にとって、ダンスの基本形は「盆踊り」だろう。先日テレビで、ダンスが小学校から必修科目になる、というニュースを放送していたが、そのときダンスの指導者はインタビューで「ダンスは憶えることですから」と答えていた。つまりダンスは、「集団で音楽に合わせてあらかじめ決まった動きをすること」という認識なのだろう。

数年前、私はブエノスアイレスでタンゴを習っていた。タンゴは男性が100%リードするので、男性は特に多くのステップ(動き)をおぼえる必要がある。しかしアルゼンチン人のタンゴの先生は、「ステップは重要ではない。音楽を聴き、それをどうやって自分なりに表現するかだ」と力説していた。来日経験が何度もあるその先生は、「日本人の男性は、沢山のステップを知ってるひとはいるが、ダンスを踊ってる人は少ない」と語っていた。

たしかに私にとっての一番大きなハードルは、「音楽をどうやって自分なりに身体で表現するか」だった。青年時代にディスコ(古い?!)で踊っていたときは、本当に心から踊っている感覚はなかった。周囲の人たちの踊り方を真似て、なんとなくカッコイイと思われる形で動いていた。言うまでもなく、音楽を自分だけの解釈で表現することはなかった。しかし私がこれまで見てきた世界中の国々では、ダンスをする人たちはカッコイイかどうかは二の次で、率直に音楽を身体で表現していた。

ダンスの根本は、自分の意思を外側に発信する「内面の表現」だ。「音楽」と「身体の表現」は一対一ではないし、あらかじめ決められたものでもない。その時々の自分の感情や受け止め方によっても変化する。しかし私は、盆踊りの「音楽に従って決められた形をする」を刷り込まれて大人になってしまった。

もちろん日本の盆踊りは、文化としてきちんと存在意義があるだろう。しかし私にとって最初のダンスとしての盆踊りが身体の自由を奪ってしまったために、感情と身体が一致できない自分がもどかしかった。だからそのギャップを埋めるために、これまでいろいろと試行錯誤をした。インドで一年以上も没頭した瞑想も、自己の一貫性を取り戻すための修行だった。

冒頭でもふれたが、このテーマは運動だけの話ではない。

子供は誰でも、「どうして?」と質問をする。しかしその質問に対して、「うるさいから、黙ってやりなさい!」と大人が言い続けると、そのうちに子供は質問をしなくなるだろう。そして、黙って何でも親に従う子供は「よい子」として賞賛されていく。

すると、子供はそのうち「なぜ」という疑問さえ持たなくなってくる。その後は、「それが社会だから」とか「世の中はそういうものだから」以上に詮索するのをやめてしまう。周囲と同じ事をやっていれば、少なくとも批判されることはないからだ。

そうやって大人になった者は、今度は子供達から「どうして?」と質問されても、「そういうものだから」としか答えることができない。それ以上に「なぜ?」と聞かれると、「いいから、黙って従いなさい!」となってしまう。自分がそうやってきたのだから、当然といえば当然の結果だろう。

日本在住の外国人の友人から、こう指摘されたことがある。
「どうして日本人の母親は、いつもあれダメ、これダメと、ダメばかりいうのか?あれでは、子供が萎縮してしまうでしょう」

その通りだと思った。萎縮した子供は萎縮した大人になり、自分の外側にある「常識」に従うことを絶対視する。それは、自己が喪失していくことを意味しないだろうか。

「しつけ」とは、「既存のルールに盲目的に服従させる」ことではないはずだ。子供であってもきちんと説明をすれば、たいていは納得できる。納得しないなら、まず最初に説明が不十分だと思うべきだろう。もしも説明できないならば、それを自分が最初に憶えたときに、どうやって学んだのかを思い出してみるといい。おそらく、黙って服従した自分を発見できるだろう。

「納得しないことに従う」ことを幼少期から課すことは、成長の段階で本人の「意思」を抑圧することになる。誤解されないように強調したいが、「従うこと」自体が問題なのではない。「黙って従う」ことと、「納得して従う」ことは決定的に違う。

自分の心と体に一貫して「イエス」と言えることが、「納得する」という行為だ。しかし納得せずに、黙って従いつづけ、それが当たり前になってしまうと、自分の「意思」も限りなくゼロになっていくだろう。結果として、いくら形やルールを憶えたとしても、自分の意思を犠牲にするほど、そこに価値はあるのだろうか。本人の意思が軽視されることは、人間としての尊厳を失うことに等しい。

意思とは、ひとりひとり固有の、自分を自分としている最小単位の根源である。意思があるから、その人の個性が生まれ、人間としての魅力も出てくる。意思がなければ、それは魂のない人間と同じだろう。

仕方がないから。
それが世の中だから。
ダメなものは、ダメでしょ。

こういったものが口癖ならば、自分の「意思の存在」を疑う必要がある。
「それが日本人の国民性だ」
「日本の文化だから変える必要はない」
などと、安易な反論がでてくる場合も要注意だ。

そもそも文化とは何か。そして、何のために文化があり、なぜ社会が存在しているのか、という点にも疑問を持たなければいけない。「文化」や「伝統」という名の下に、どれだけの意思が潰されていき、どれだけの個性と人間性が犠牲になっているのか、見落とすべきではない。

日本には、「自分が本当に何をしたいのか、よくわからない」と言う人が多い。自分としっかり向き合っていなければ、分からないのは当然だろう。自分と向き合うためには、自分の意思を明確に知る必要がある。

もう一度、ここでくり返したい。「黙って従う」ことと、「納得して従う」ことは決定的に違う。自分で納得した規則やルールならば、それに従うことは苦にならない。それは社会のルールや法律も同じだろう。自分たちで社会のルールを作っているという自覚があれば、そのルールに従うことに誇りさえ感じるだろう。自分の意思が反映されているという実感は、「自由」という感覚にもつながってくる。

もしも今度、誰かに「つべこべいわず、黙ってやりなさい」と言いそうになったら、それは相手の魂を抑圧する行為だと自覚すべきだろう。そして、きちんと説明できない自分をもういちど見つめ直す、絶好のチャンスとすべきではないだろうか。

2012年1月6日金曜日

お知らせ(参加者募集)

神頼みを一切やめてから、すでに20年以上は過ぎました。
だからといって、すべてが自分次第とは思っていません。
自分ができることを、簡単に放棄したくないと感じているだけです。
自分自身が弱い存在だと自ら実感しているからこそ、
己を甘やかさないための処置でもあります。
毎年この時期になると、そんな気持ちをあらためて確認しています。


さて、以下はお知らせです。

今月の1月19日、秋葉原にあるコワーキング・スペースCEROにて、
「Well-being Lab 新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える」
を開催します。
(Well-being Labは、長尾さんが代表の研究所です)

詳細は以下になります。
参加ご希望の方は、フェイスブックのアカウントをお持ちの場合はこちらから、それ以外の方は、以下のアドレスへお名前を明記してご連絡ください。

以下、FBサイトからのコピーです。


2011年3月11日、未曾有の大震災を通し、日本社会は今まで抱えていた様々な問題を一挙に露呈し、人々の意識や生き方を根元的に変えることになりました。


放射能流出からの風評被害、被災地への政府の対応状況に対する政治不信等が雪崩的に広がると同時に、被災地では少子高齢化や過疎化を抱えながら、復興・復活への第一歩となる2012年を迎えます。


今回は、「幸福途上国ニッポン」の著者・目崎雅昭さんと、チャリティ情報ポールサイト「Charity Japan」の運営者・坪井久人さんをお迎えし、今後どのようにして幸せな未来社会の青写真を描くのか?・・・参加者皆さんと共に考える時間にしたいと思います。


■目崎雅昭さんからのメッセージ
 3.11からの復興も含め、日本は社会としてどのようなビジョンを持つべきなのでしょうか。単なる経済発展だけでは不十分なことは明らかでしょうが、だからといって、資本主義を真っ向から否定することも得策には思えません。個人の幸福の追求と、社会の秩序や安定は、必ずしも相反するものではありません。どうすればそんな社会を実現できるのか、「幸福」をキーワードに「日本の未来ビジョン」を皆さんと一緒に考えませんか。


■坪井久人さんのCharity Japan サイト
 http://charity-japan.com/


●日 時 : 2012年1月19日(木)19時~22時
●場 所 : Coworking Place CERO 秋葉原
●参加費 : 2,000円(ドリンク+お菓子付)
●定 員 : 40人(定員になり次第締め切らせていただきます)
●主 催 : Well-being Lab.(幸せ研究所)




2011年12月20日火曜日

啓蒙とは何か

最近いろいろなところで、いろいろな年代の人々と話す機会が多くなっている。
すると、余計なことを説明しなくても話がどんどんと進む人もいれば、どんなに話をしてもまったく噛み合わない人もいる。

いくら意見が違ったとしても、自分の意見を持つことは非常に大切だ。大切どころか、人生において最重要課題と言ってもいいかもしれない。個人の意見がなければ、個性も人間性もなくなってしまう。

しかし日本の社会を考えてみると、自分の意見を持つことは、必ずしも良いとされていない。
「あなたは何がしたいのか」
と聞かれることもあまりないし、人に聞くこともないだろう。

「つべこべ言わずに、とりあえずやるべき事をやりなさい」
という空気が蔓延し、ひとりひとりが何を考えるかは極力排除され、社会のルールや常識が絶対視されている。

このような批判を展開していると、
「それは日本人の民族性なのだから、仕方がない」
と説明する人は少なくない。
日本には日本のやり方があり、個人が自立した西洋型の社会は合っていない、というありがちな意見だ。

私はいつも、それは文化の問題ではなく、人類が共通して直面してきた課題であり、それを西洋とか東洋という言葉で線引きすることがナンセンスだと思っている。

すると、1784年にドイツの哲学者カントが、『啓蒙とは何か』(中山元訳)の冒頭で以下のように述べているのを見つけた。

啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。

未成年の状態について、カントはこう説明する

人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

当時のドイツ人に対して「自分の頭で考えることが大事」とカントが力説しているのは、要するに、当時のドイツ人はあまりものを考えていなかった証拠だろう。

人間の怠惰と臆病にある。未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。

「考えないほうが楽だから」という話は、日本人からもよく聞く。

あらゆる場所で、議論するなと叫ぶ声を耳にする。将校は「議論するな、訓練をうけよ」と叫ぶ。税務局の役人は「議論するな、納税せよ」と叫ぶ。牧師は「議論するな、信ぜよ」と叫ぶのである。

これなど、今の日本で「つべこべ言うな。やるべきことを先にやりなさい!」とまったく同じだ。18世紀のドイツでは、議論がタブーだったのである。

私は確信していることがある。
日本人が議論ができないのは、そういう訓練を受けていないから、ということだ。民族性などは関係ない。だから訓練、つまり教育を受ければいいだけの話なのである。

ひとりひとりが自分の頭で考えれば、自然といろいろな意見が出てくるので、必然的に議論へと発展する。議論がタブーとされる社会は、考える個人が少ない証拠と言っても過言ではないだろう。

人と違う意見は素晴らしいのである。批判は大歓迎すべきなのだ。そうやって、いろいろな意見があつまるからこそ、人類としての英知が積み上がっていくのだ。

啓蒙には、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。

自由のうちでもっとも無害な自由を、われわれはもっとエンジョイすべきだろう。そこに洋の東西は関係ない。


永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)


2011年12月9日金曜日

「幸福度に関するアジア太平洋コンファレンス」に参加して

経済発展だけでは人は幸せにならないことに、異論を唱えるひとは少ないだろう。しかし問題は、それ以外で分かりやすい指標がないことだ。

ちなみに先進国では、GDPと国民の満足度に相関関係は見られない。

世界の国際機関や政府は、近年になってGDP以外の指標を模索している。もちろん一番有名なのはブータンのGNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)であるが、フランス、イギリス、そして日本政府も、幸福についての調査を真剣に取り組みはじめている。

「どうやったら幸福になるかは、個人がそれぞれ違うものだから、指標化することはナンセンス」、という意見もあるだろう。

そういった意見をふまえながらも、本当に幸福度を測ることはナンセンスなのか、それとも何らかの指標として作ることができるのか、心理学、脳科学、経済学、統計学など、いろいろな角度からの研究が世界中ですすめられている。

そんな研究者たちに加えて、各国の政策担当者、統計担当者ら約 250人の専門家が12月5・6日に世界中から東京へ集合し、二日間のコンファレンスが行われた。

日本から内閣府経済社会総合研究所(ESRI)、そして「先進国クラブ」と呼ばれるOECD(経済協力開発機構)、アジア開発銀行(ADB)、韓国統計庁(KOSTAT)、国連アジア太平洋経済社会委員会(UNESCAP)と、そうそうたる機関が主催するイベントである。
http://www.measuring-well-being.asia/jp/

そんなコンファレンスに、今回の登壇者のひとりでもある袖川芳之さんの紹介で、私も参加することができた。ちなみに袖川さんは、『幸福の方程式』(ディスカバー携書)の著者である。

会議の当日は内閣府特命担当大臣の古川元久氏のスピーチではじまり、各参加機関責任者、そしてブータンのGNH委員会担当長官Karma Tshiteem氏のスピーチがつづいた。(下記の写真は、ブータンのKarma Tshiteem氏)


当日のプログラムはこちら

その後、3つの分科会に別れ、それぞれのテーマについての議論が行われた。ここからは同時通訳がなくなり、英語のみ。後で聞いた話だが、政府の予算の都合でそうなったらしい。

朝9時から18時まで二日間、じっくりと会議が進められた。

ここで会議の内容をすべて要約するのは無理があるので、印象に残った点だけを簡単に書きたい。

会議に参加した人々に、人生で「幸福」が非常に重要であることは、共通の認識だろう。しかし問題は、幸福をどうやって定義するかだ。

日本語でも「幸福」と「幸せ」は若干ニュアンスが違う。そして英語では、「Happiness」の他に「Well-being」が使われることが多い。各国の文化の違いによっても、それぞれの言葉の意味が違ってくる。ちなみに、このコンファレンスの英語のタイトルは「Measuring Well-Being and Fostering the Progress of Societies」で、Happiness ではなくWell-beingを使っている。

「Happiness」という単語では、あまりにも解釈が広くなってしまう懸念があるので、科学的に判定しようとする場合は、Subjective Well-being (SWB)が使われることが主流となっている。日本語の定訳はないが、主観的満足感、主観的幸福感、もしくはカタカナで主観的ウェルビーイングとでも訳したほうがいいかもしれない。

しかしSWBでもその解釈に仕方にばらつきがあるようだった。会議中でも、そういった部分を指摘する人が何人かいた。

細かい定義や相違を突っ込んでいけば、必ず例外や矛盾がでてくることは否めない。しかし私としては、もっとマクロな視点で統計結果を眺め、そして文化の差ではなく人類共通の部分に的を絞ることで、人類として普遍性のあることが見えてくると考えている。

拙著『幸福途上国ニッポン』は、そういったアプローチで、文化や社会構造によって個人の幸福度に影響をあたえる要因を探ったものである。

登壇者のひとりで、オーストラリアのクイーンズ大学のPaul Frijters教授は、私と似たような考えを持っているようだった。

Paul Frijters氏は190センチほどの長身にスキンヘッド、さらに黒いカウボーイハットを首にかけていたので、会場でもひときわ目立っていた。彼とは、コーヒーブレイクの時に話す機会があった。

私の持論である、日本人の幸福度が低い構造的な理由を説明すると、彼はすぐに「ああ、わかる、わかる。その通りだよ」と、同意をしてくれた。

そして私は、多くの人々に私の持論を説明する際、年齢が高くなればなるほど共感されにくくなっている、という事実も説明した。

すると Frijters氏は、

「そりゃ、そうだよ」

と、当たり前のように言い切った。

「30歳を過ぎた相手は、やめたほうがいいね。時間の無駄だから。だって、例えばなぜ警察官を採用するときに、25歳以下しか募集しないか分かる?25歳をすぎると、他の思考を受け入れることがとても困難になるからだよ。軍隊も同じだよね」

つまり30歳までに経験してきた世界観を、その後に覆すことはほとんど無理ということだろう。

そして彼は、こうも言った。

「君は日本のために、そういう本をどんどん書くべきだよ。日本の若者は、自分が幸せになるための言い訳が必要みたいだから」

よく考えてみると、私の個人的に親しい友人たちは、国籍を問わず、全員が「典型的なナントカ人」ではない。30歳になる前に多くは異文化で生活した経験を持ち、文化や社会を硬直的なものとは考えていない。そして自分や自分の住む社会を、一歩離れた視点で見ようとしている。

そして何よりも、国や文化を超越した人間としての根本的な共通項を見いだしており、それが友人としての絆となっている。

私は、「幸せ」も基本的に同じではないかと考えている。つまり、細かい言葉尻や表現に注目するのではなく、人類として共通に感じる「幸せ」は同じであろう。そして、それが重要と思う心もまた、普遍的な事実であると信じている。

だからこそ、個人の幸せを追求することが、人生にとって一番重要であるということも、また人類共通だと思っている。

もちろん「個人の幸せ」に、自分以外の幸せも含まれるという前提だが。


自分が幸せになれば、自然と他人も幸せにしたくなる。しかし他人のことを優先させてばかりいると、自分はいつまでたっても幸せになれないばかりか、他人も幸せにしない可能性がある。
それもまた、人類の共通項であろう。


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2011年11月11日金曜日

未来のグローバルリーダーへ

先日、「未来のグローバルリーダーを育成」している学校で、講義をしてきた。

講演内容はこちら

高校時代からの同級生、福原正大氏が学院長を務める、IGS(Institution for Global Society) だ。

簡単にいうと、世界の大学で通用する学生を育成している。(関連記事はこちら:第四の開国~ハーバード大学と東京大学の二兎を追え)

海外留学の支援というと、TOEFLやSATなどのテストを指導する塾と思われがちだが、こちらでは哲学的な思考や、英語でのディスカッション等を中心として、日本人が苦手となりがちなスキルを磨くことが主となっている。

学院長の福原氏自身、外資系の金融機関で取締役を歴任しただけでなく、フランスの大学院(INSEAD、グランゼコールHEC)などを卒業しているバリバリの国際派である。(福原氏のプロフィールはこちら)

金融機関でカネだけを追いつづける世界から、まったくの別世界である教育に参入した福原氏の心情には、私としても共感できるところが大いにある。

欧米の社会で、日本人が個人として存在感を発揮することは非常にむずかしい。しかしそれは、日本の教育によって個人が抑圧されている結果にすぎない。ならば、もっと個人を尊重する教育をすればいいだけの話だ。

日本には日本のやり方がある、という意見もあるだろう。欧米のマネをする必要などない、と考えるひともいるかもしれない。

しかし、個人が自立して自由を獲得していくことは、欧米でも一般化しはじめたのは19世紀以後の話だ。そして世界の歴史の流れとして、人類が普遍的に追い求めている傾向があることは間違いない。

古今東西、個人を抑圧しつづけて繁栄した社会は存在しない。

そして、個人を抑圧する社会では、その個人の満足度・幸福度が低いという結果もある。(参照:幸福途上国ニッポン)

リーダーとは、必ずしも集団のトップである必要はないと思う。
自分が自分であることに誇りと責任をもつことが、リーダーとしての一番重要な要素ではないだろうか。

そして何よりも、まず最初に、自分が自分のリーダーであることだろう。


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2011年11月5日土曜日

ガールズナンデスTV

最近は、すっかりテレビを観なくなってしまった。
観たい番組があるときは、録画をして、あとで1.5倍速にして観ている。
もちろんCMはすべて飛ばして。

たとえば、ワールドビジネスサテライトは半分の30分で観ることができる。

たまにニュースなどを生で観ると、話すスピードが遅くてイライラしてしまう。

その代わりに、ネットに費やしている時間はどんどんと長くなっている気がする。
ニュースを読んだり、その論説や動画など、貴重な情報源はいくらでも出てくるからだ。

特にフェイスブックを通じて、世界各国の友人たちが「面白い」と感じた情報をシェアしてくれるので、それが面白い確率は非常に高い。

ところで、お台場TVという、フジ系列のネット番組がある。そこのガールズナンデスTVという番組に、私の古くからの友人が先日出演した。




22分ごろから登場するのが、ボイストレーナーの西めぐみさんで、GEM式ビジネスボイストレーニングという本も出版している。

偶然にも、彼女が番組で紹介している本『厳しい時代を乗り越える 強いリーダーがやるべき88のこと』の著者、福原正大さんは、私の高校時代の同級生だ。

福原さんは、未来のグローバルリーダーを育成するIGSという学校を運営している。

そして36分ごろからは、西さんが拙著『幸福途上国ニッポン』を紹介してくれている。(西さん、ありがとう!)

福原さんの学校では、近日中に私も講師として話をしに行く予定をしているので、その様子はまた後日にアップします。

(追記: こちらに当日の様子がアップされています)

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2011年10月26日水曜日

成田国際高校での講演

昨日、千葉県立成田国際高校の2年D組で、5,6時間目の授業中に講演をしてきた。

私の中学時代の同級生、組田幸一郎氏が英語を教えている学校だ。組田氏とは、バスケットボール部で一緒に汗を流した仲間でもある。

ちなみに組田氏は、英語教師をしながら、英語教育に関する書籍をすでに7冊も出版している。そんな彼のブログのタイトルは「英語教育にもの申す」だ。

彼とは最近、25年以上ぶりに再会し、今回私が講演することとなった。

「話が面白くなかったら、生徒が寝てもいいから」

と、講演の内容について私が半分冗談で言ったら、なんと彼はそのまま生徒に伝えてしまった。

「いつも僕の授業では絶対に寝させないんだけど、今回『寝てもいい』なんて言ったから、生徒は相当期待してるよ。よろしくね」

と、数日前に言われた。そして授業は午後の一番眠くなる時間。すごいプレッシャーだ。自分が高校時代の頃を思い出し、眠くなかった授業を思い出しながら、話を組み立てるしかない。

そのうえ、生徒の保護者も何人か来ることとなった。さらなるプレッシャー・・・。

さて、当日。

最初の5分が勝負だろうと思い、インパクトのある世界の写真を見せて、「ここはどこでしょう?」ではじめた。そして、現地で私がアホなことをやっている写真を織り交ぜた。

たぶんあまり馴染みのない中南米とアフリカが中心だ。ボリビアのウユニ塩湖、イースター島、ガラパゴス諸島、アフリカ各地の動物。なかなか食いつきはいい。

15分経過し、まだ寝てる生徒はいない。

次ぎに自己紹介を兼ねて、私が最初に海外に興味を持った経緯などを話す。高校時代の未知との遭遇だ。

あ、ひとり寝だした。

でも前列を陣取った男子生徒たちの目はまだまだ生きてる。

パキスタン、アフガニスタンの話から、アメリカの入国審査で私がアルカイダに疑われたエピソード等を紹介。

おお、もうひとり寝だした。

5時間目が終了し、休憩をはさんで6時間目に突入。



後半は、日本人と海外のひとびとの生き様の違いを、ゆるく説明しながら「幸せとは?」という、私の得意分野に話をもっていく。


あれ、またひとり寝てるよ。

でも、一番後ろに座ってる2人の保護者は、「うん、うん」とうなずいてくれてる。

最後は、私の熱いメッセージで終了。

組田氏いわく、あの時間で他の科目だったら、もっと寝ていても不思議ではないとのこと。まあ、上出来としよう。


講演の終了後、保護者も含めて生徒から、以下の感想をもらった。
41人全員の全文を掲載するのは無理なので、いくつか部分的に抜粋します。

「堅苦しい話を長々とされるのかと思っていましたが、世界各国の動物や、人や、場所や、その他にたくさん楽しいことを聞けて(見られて?)よかったです」

「私にはたくさんのなやみがあって、(中略)そのために今、勉強しています。しかし目崎さんの経験したお話を聞くと、私にも道はたくさんあるんだなと思わせてくれました」

「最初は眠くなるんだろうなあと思っていたけれど、話を聞いてみると、とてもおもしろい話で、夢中になってしまいました」

「途中寝ちゃったけど、すごくおもしろかったです」

「スライドショーの写真で、地球温暖化問題や貧困問題など、世界中にあふれている様々な問題を身近に、そして重く感じることができました」

「ああ、やっぱり(組田)先生の友達なんだと思いました」

「思ったより声が高かった」

「これまでは外国には行きたくないと思っていましたが、今日の話を聞いて、行ってみたくなりました」

「一番強く印象に残ったのは、英語ができるようになったら、日本語ができることが強みになるということです。(中略)とりあえず、自分で何をやるかを決めて、毎日頑張るということを学びました。私も世界で必要とされるような人になりたいと思います」

「これからの進路のこと、すごいなやんでいて、今も悩んでいるけど、本当にしたいことを職業にしたいと思った」

「今、好きなもの、したいこと、夢がある自分は幸せだと思った」

「俺も将来いろいろなところにいって、いろいろなものを感じ、面白い大人になりたいです。自分にウソをつくなと言われて、めっちゃひびきました」

「自分の今後の人生を深く考えたくなる話だった」

「今までの世界観の小ささに気付きました」

「英語をはじめ、世界についてもっと知りたいと思ったし、また世界だけでなく、日本や自分自身を改めて、今日挙がっていたような『自分に正直になる』という見方から見直してみたいと思った」

「私も、自分の好きなことと得意なことが一致するような将来の仕事をみつけたいなと思いました。そして今から、英語と読書を、まねしてやりたいと思いました」

「普段の生活じゃわからないような話をきけて、すごく面白かったです。新しい発見?みたいなのがあって、なんだか新鮮でした」

「短い時間だったけど、たくさんのことを学べました」

「世界を旅したくなった。夢を真剣に考えたくなった」

「自分の好きなことをみつけて、自由にやりたいと思った」

「幸せについて考えてみようと思った」

「周りの目や期待を気にするのではなく、自分の好きな事を結果はどうあれ、一生懸命にやればいい、という言葉がすごく心に響いた。それは今の学校生活でも、これからの人生においても自分のベースになる大事なことだと思う」

「私の考えが少し変わった」

「この地球上にある美しい景色は、いつか自分の目で見たいと思っています」

「世界には私たちの知らない美しい風景があるのだと思い、ますます世界に興味がわいてきました」

「目崎さんが拘束されたと聞いて、人生においてそういう武勇伝みたいなものが欲しいと思った」

「この機会をいかして、これからの人生につなげたいと思った」

「外国に行きたくなりました。私は星がきれいに見える場所にいつか行ってみたいです」

「貴重な体験の写真がたくさんあって、驚いたことがいっぱいでした。そんな世界を旅してきた目崎さんの言葉だからこそ、すごく胸に残りました」

「私は日本から将来出ることはないと思っていましたが、ぜひ、外国に行って物の見方や考え方の違いを知り、よりよい生活ができればいいなと思いました」

「私はまだこの先の進路が決まらずに悩んでいるのですが、お話をきいて少し考え方も変わったきがします」

「世界は広いと改めて感じました。『幸せってなんだろう』と、今まで考えたこともありませんでした」

「”国際人”って、こういう人のことを言うのかと思いました。外国の人からアドバイスを受けているようで、とても新鮮で面白かったです」


保護者の方からは、

「今日のこの時間が未来を担う子供たちの道しるべになったことと思います。」

「欲をいえば、もっといろいろな人に聞いてもらえたら、と思いました」


そして、私の感想。

もっと広い世界、そして「幸せとは何か」に興味をもってくれるきっかけになったのであれば、本当に嬉しいです。

「最近の若者が内向きになっている」という話はよく聞きますが、それは「外の世界がどれだけ面白いか」を伝える人が少ないからではないでしょうか。

幸せな人生を送りたくない人はいないと思います。どれだけ幸せになれるかという可能性を想像することができれば、あとは本人の決断次第です。

その可能性を若者たちに示すのが、私たち大人の役割ではないでしょうか。もちろん、大人が幸せに暮らしていなければ、そもそも話になりませんが。

成田国際高校2年D組のみなさん、そして保護者の方々、ご静聴ありがとうございました!韓国への修学旅行、楽しんできてください!!