2010年11月30日火曜日

サンデル教授的に現代ニュースを「正義」で分析 (1)

ハーバード大学マイケル・サンデル教授の著書『これからの「正義」の話をしよう』を参考に、最近のニュースを分析してみようと思う。

まず、緊急避妊薬について、以下のような記事があった。

厚生労働省の薬事・食品衛生審議会医薬品第1部会は26日、避妊に失敗したときなどに服用し、望まない妊娠の可能性を下げる緊急避妊薬ノルレボ(成分名レボノルゲストレル)について、製造販売を承認しても差し支えないとする意見をまとめた。

 同省は12月上旬まで一般から意見を募り、同下旬の薬事分科会で最終結論を出す予定。
 ノルレボは女性ホルモンの一種である黄体ホルモンの製剤で、医師の処方により性行為後72時間以内に1回服用。排卵の抑制などで妊娠を80%以上抑える効果があり、欧米など48か国で承認されている。国内では製薬会社「そーせい」(本社・東京)が昨年9月に承認申請していた。
 性行為後の避妊薬を巡っては、安易な使用を招き、性感染症も予防できるコンドームの普及を阻むといった慎重論がある。その一方で、女性の心身を深く傷付ける人工妊娠中絶を避けられるようになるとして、医師らが導入を要望していた。
(2010年11月27日13時05分  読売新聞)
ここで注目したいのが、「慎重論」と、「容認論」の立場の違いである。

慎重派は、緊急避妊薬が性行為後に使用するものなので、

コンドーム普及率低下=>性病の蔓延=>社会的コスト高

というロジックだろう。これは、最大多数の最大幸福をとなえる「功利主義」と考えることができる。

その一方で医師による容認派は、

緊急避妊薬の普及=>中絶が減る=>女性の心身の保護

であり、これも一見すると功利主義という印象を与える。つまり、結果として女性をはじめとする社会全体の幸福度が上がるという発想だ。たしかに功利主義的な側面もあるだろうが、もうひとつ、読売新聞の記事では触れていない点がある。それは、「女性の選択肢を増やす」という事実がふくまれていることである。

人工妊娠中絶が合法である日本では、中絶の是非については社会問題となっていない。しかしアメリカでは、「生命」をどう定義するかという意味で、中絶を「殺人」と考える人びとが中絶を反対している。反対派の一部には過激な人もおり、中絶をしている病院の医師を射殺するという事件までおきている。それに対して容認派は、「中絶は女性が選択する権利」であると主張する。これは個人の自由を尊重する「リベラル派」と呼ばれている。

つまりリベラル派からすると、緊急避妊薬を容認することは、女性が「妊娠するかしないか」という選択を自ら得ることになる。

販売の容認を要望している医師たちが、実際にリベラル派として「女性の権利」を念頭においていたかどうかはわからない。便宜上、「社会全体の利益につながる」という功利主義的な説明で主張したほうが、「個人が選択する権利だ」と説明するよりも、厚生労働省の官僚に受け入れやすいという現状もあったのかもしれない。
いずれにせよ容認されれば、結果として女性の選択肢が広がることは間違いない。

それでは、慎重論に対して、リベラル派はどのように反論するだろう。
個人の自由を最大限に尊重し、個人に対して政府の関与は最小限にするべきだと考える「リバタリアン(自由原理主義者)」は、

「コンドームを使おうと使うまいと、政府に言われる筋合いはない!」

と憤るだろう。自分の体の所有者はあくまで自分であり、たとえ性病になったとしても、それは自分の責任だということだ。

それに、そもそも緊急避妊薬があるからといって、エイズや他の性病を心配しなくなる、などということになるのかという疑問もある。仮にそのような人がいたとしても、そんな愚かな人のために、女性が選択する権利を奪う理由になるのか、という意見にもなる。

それに対して、慎重論はどのように反論できるか。

容認されることで、どの程度の性病患者の増加が予想でき、それがどの程度の社会的コスト増になるか、といった試算を示すぐらいだろう。しかしながら、そういった試算は、「女性の心と身体」に与えるコストも考慮しなければいけない。そしてそのコストは、現代社会では非常に大きいはずだ。

うーむ。やはり、どう考えても、容認する道しかないだろう。それが功利主義であっても、リベラルであっても。

いや、コンドームの販売減を心配する関連企業と、中絶で儲けている医者は反対するかもしれない。彼らにとって社会的な「正義」は関係ないからだろう。

2010年11月12日金曜日

お知らせ(参加者募集)

突然ですが、11月25日(木)20:00から、渋谷区広尾のブックラウンジにて
「ゆるく哲学をしよう!」と思っています。

最近話題になっているマイケル・サンデル教授著『これから「正義」の話をしよう』を題材にして、みんなでいろいろと話し合おうという企画です。本の解説もします。

サンデル教授の本を読んだ人、買ったけどまだ読んでない人、興味はあるけど・・・という人、聞いたことないけど言いたいことが沢山ある人等々、どなたでも大歓迎です。みんなで、あーでもない、こーでもないと、いろいろ考えましょう。ゆるくて、時には脱線することがあっても、本質的な議論を目指します。

(場所の都合により、20名様限定)

【参加費用】
2000円 (厳選赤ワイン又はソフトドリンク、2杯付!*それ以上はワインもしくはソフトドリンク1杯400円)
【参加申し込み】
以下のURLからお願いいたします。
【日時】
11月25日(木)20:00-23:00
【開催場所】
東京都渋谷区広尾5-9-26 第二木下ビル4階
(看板などだしていませんので、エレベータでそのまま4階までいらしてください。)
詳しくは、ブックラウンジ・ココロウタ(心偈)まで





2010年10月18日月曜日

不良社員に、会社の責任はあるか


七十七銀行の行員である門脇大貴(26)容疑者が、住居侵入と盗みの疑いで仙台北署に逮捕された。(2010年10月17日)
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/10/20101017t13015.htm

仙台市青葉区の女性(81)方に、勝手口の窓ガラスを割って侵入し、室内の現金約18万円を盗んだ疑いである。門脇容疑者は「消費者金融に借金があった」と容疑を認め、数件の余罪をほのめかしているという。

しかしここで気になったのが、

「行員が逮捕される事態となり、誠に申し訳ない。深くおわびするとともに、警察の捜査には全面的に協力する」
とコメントを発表した、七十七銀行である。

行員が逮捕されることは、銀行にとってマイナスのイメージがあることは間違いないだろう。ちなみに七十七銀行とは、宮城県仙台市に本店を置く東北地方最大の地方銀行だ。そこで銀行としては、火消しに奔走しているのかもしれない。

しかしよく考えてみると、この逮捕された行員は銀行の金を横領していたとか、銀行の名前を語って詐欺をしていたわけでもない。つまり逮捕された人物がたまたま銀行員であったということで、容疑者の職業と容疑のかけられた犯罪には直接関係がない。

はたして、「誠に申し訳ない。深くおわびする」と謝罪する銀行側には、責任があるのだろうか?
もしも責任があるとすれば、事前に何をしていれば「銀行の責任ではない」と、胸を張って主張できるのだろう?

ひとりの成人した個人が、労働力を提供するために会社と契約を結んでいる以上、その個人のプライベートでの行動まで責任を取ることは難しい。もしも会社が社員のプライベートにまで責任を持つ必要があるならば、会社には社員を24時間徹底的に管理する義務が必要となってくるかもしれない。もちろん、そんな会社を望む者はどこにもいないだろう。

「連帯責任」という考えが、こういった行動の背後に見え隠れする。



確かに日本では、犯罪者の家族に限らず、親戚までが非難を浴びてしまう風潮がある。そこで七十七銀行のコメントは、必ずしも銀行側だけに問題があるとも思えない。

もしかすると、銀行側では本心としてまったく責任がないと考えているのにもかかわらず、世間からの非難を回避するために、先手をとって謝罪したのかもしれない。波風を立てないためにも、とりあえず謝っておこう、という心理が働いたとも推測できる。

しかし、本来ならば責任がないはずの人々が社会的責任を追求されるという風潮は、非常に危険な要素を内在している。犯罪者の家族や親戚が自殺に追い込まれるという事件なども、そのひとつである。

個人と、その個人が帰属する集団との責任問題について、もうすこし考える余地があるのではないだろうか。

もしも、隣に住んでいたという理由だけで、隣人の犯罪の責任を追及されたら、理不尽と思う人は多いだろう。自分自身でコントロールできないものにまで責任を追及されるのは、非常に理不尽な社会である。人種差別や性的差別なども、心理構造としては同じである。人種も性別も、自分で選ぶことはできないのだから。


七十七銀行にとって、行員がプライベートの時に起こした不祥事の責任を取らされるならば、非常に理不尽な話である。そして非難されるかもしれないからと、先に謝ってしまうというのも、結局は「連帯責任」という理不尽な風潮を肯定することになる。

社会の風潮は、市民の意識が変わることでどんどんと変化していくものである。そこに明確な意志と、誰もが納得できる理由さえあれば、自発的に変えていくことも可能だろう。



少なくとも、そうやって今までの社会が変わってきたことは間違いない。





2010年10月16日土曜日

哀愁と喧噪のブエノスアイレス

夜中の12時を過ぎるころ、ようやく会場では活気が生まれてくる。センチメンタルなメロディーに、鋭いスタッカートの効いたタンゴの旋律が、高い天井でこだまする。

上半身をぴたりと寄せ合った男女の群れは、楽曲のパートでも演じるかのように、ダンスフロアをゆっくりと反時計回りにながれていく。若い女性と白髪の男性。年配の女性と若い男性。十代のカップル。長年連れ添ってきた老夫婦。

それぞれの男女が、それぞれの思いを込めて、「数分間の恋」という悦にいる。

南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、人生を謳歌する者に、年齢や性別、そして時間も制約しない街である。ミロンガとよばれるタンゴを踊るサロン、そして若者の群れ集うクラブでは、平日でも早朝まで、毎晩活況に満ちている。

劇場や映画館は人であふれ、レストランやバー、そして街角のカフェでも、あらゆる年代がその時間を満喫する。東の空がうっすらと明るくなる午前5時、まだ平日というのに、ブエノスアイレスの活力に衰えは見えない。

「南米のパリ」と称されるブエノスアイレスは、アールヌーボー様式の影響を受けた建物が並び、奇麗に区画整理された市街の街路樹は、緑であふれている。一瞬、パリかと錯覚するほどだ。これほどヨーロッパ的な都市は、他の南米諸国にはない。

スペインに次いでイタリアからの移民も多く、生パスタを製造・販売している家族経営の小さな店舗を街のあちこちでよく見かける。また多くのレストランでは、年季の入った石窯を使い、薪で焚いたあつあつのピザが定番だ。そしてアルゼンチン人の話すスペイン語も、リズミカルなイタリア語のなまりがとても強い。

アルゼンチンはワイン大国でもある。生産量がフランス、イタリア、スペイン、米国に次いで世界第5位という事実はあまり知られていない。

アルゼンチンワインの特徴は、豊潤な香りを持つ赤ワイン「マルベック種」だ。しかし生産される9割以上は、国内で消費されている。7割を輸出している隣国チリとは、とても対称的ともいえる。

そしてアルゼンチンの人々は、週末になると友人や家族で集まってバーベキューを楽しむことが伝統となっている。もちろん100%アルゼンチン産の牛肉だ。おまけに鶏肉よりも値段が安い。このような牛肉中心の食文化が、アルゼンチンの旺盛なワイン消費を支えている。

世界を長年旅していた私は、ブエノスアイレスで一年ほどの時を過ごした。中南米では必要不可欠なスペイン語を学びながら、アルゼンチンタンゴをたしなんだ。

そんなある日、私はいつものようにローカルバスで市内を移動していた。荒っぽい運転で有名なブエノスアイレスのバスは、急発進や急加速が当たり前で、乗車中はどこかにしっかりとつかまっていないと車内で転げ回ることになる。

前席の背もたれにあるパイプを右手で握りながら座っていた私の近くに、白髪のおばあさんが乗り込んできた。私はすぐに席を立ち、おばあさんに私の席をすすめた。するとおばあさんは無言で、あたかも当然のように私の席に座った。

「ありがとう」のひと言もなければ、笑顔のかけらもなかった。

ブエノスアイレスの公共交通機関では、年配者は乗車すると真っ先に若者の座る席に近づき、若者たちは当たり前のようにその席をゆずる。そこには、ほとんど会話のやりとりはない。

若者はそそくさと席を立ち、年配者たちはまるでそこに自分の名前が書いてあるかのように席につく。「優先席」という表示はどこにもないが、実質的にはすべての座席が優先席なのである。

そして当たり前のことが当たり前のように行われているだけなので、多くの人にとって、ゆずってくれた人に感謝をするという発想すらないようである。

*

ブラジルに次いで南米で2番目に大きな領土を持つアルゼンチンは、かつて世界有数の富裕国だった。ただし、それは100年前の話である。

当時アルゼンチンのひとり当たりGDPは、同じ時期の日本の2倍もあった。しかし現在のそれは、今の日本の半分以下となっている。第二次大戦後の、産業構造が変化していく世界に取り残されたという大きな潮流の中、軍部のクーデターによる政権闘争が1980年代前半までつづいたこと、そしてたび重なる経済政策の失敗が追い打ちをかけ、アルゼンチン経済は衰退の一途をたどった。

2001年にはとうとう政府が破綻し、翌年の失業率は25%まで跳ねあがった。そのため多くの国民は職を求めて、スペインやイタリアへ渡っていった。

近年では失業率が9%を割るまで低下してきているが、隣国ブラジルのような新興国の勢いはない。そもそもアルゼンチンは発展途上の国ではなく、ありし日の繁栄の面影を残す、衰退途上の国なのかもしれない。

アルゼンチンは、中南米諸国に特有の貧富の差が非常に大きい。治安については、ブラジルやベネズエラほどの凶悪犯罪は多くないが、窃盗や汚職などは日常茶飯事である。

海外からアルゼンチンへ郵便物を送ると、きちんと手元に届く可能性は非常に低い。また国際空港でも、乗客が預けた荷物を空港の従業員が盗む事件などは毎日のように起きている。これまで何人も逮捕者が出ているが、どうやら大きな犯罪組織が裏に絡んでいるため、警察も癒着関係にあるようだ。

ちなみに、各国がどのくらい腐敗しているかを調査するNGO「トランスペアレンシー・インターナショナル」によると、アルゼンチンの腐敗認識指数は175ヶ国中105位と、世界的に見ても腐敗度が非常に高い。(注:腐敗度の少ない国が上位となる。日本は17位。1位はニュージーランド、2位デンマーク、3位スウェーデン)

このような統計上の数字を見ていくと、アルゼンチンの問題点を探すのはとても簡単だ。しかし、ひとつだけ注目したい事実がある。それは、アルゼンチン人の幸福度が、日本人よりもかなり高いということである。そしてこの事実は、ラテンアメリカ全般にも共通している。

日本の半分以下の富しかなく、日本よりも格段に大きい貧富の格差があり、治安も悪く、失業率も慢性的に高く、そして社会全体にどうしようもないほどの腐敗がはびこっている。そんな社会に住む人々が、日本人よりも幸せだと言っているのである。いったい、これはどういうことなのか。

ラテンアメリカの謎については、これから解明していくことにしよう。しかし少なくとも、ここでひとつだけ言えることがある。

私が出会った数多くのアルゼンチンの人々は、年齢や性別に関係なく、それぞれが人生を楽しむ術を知っており、それを実現することに躊躇しないことである。

彼らの実感している幸せに、決して偽りはないだろう。

2010年10月3日日曜日

論理という魔法

「議論」というと、「理屈っぽいおじさんたちが、ああでもない、こうでもないと、時には屁理屈をいいながら騒いでいる」という印象を持つ人がいるかもしれない。

議論は堅苦しく、また疲れるから嫌いだという人もいるだろう。そもそも議論などは、時間の無駄だと思う人もいるかもしれない。

どんなに話し合っても、理解しあえないことはある。どれだけ議論をつくしても、時には合意に達せないこともある。いくら頭をひねって考えても、言葉で説明できないこともある。だから言葉を超えた理解も必要だろう。

しかしながら、だからといって議論を軽視すると、大きな問題も生じてくる。それは人と人とが理解しある根幹の部分に、「論理:ロジック」という魔法のシステムがあるからだ。

論理とは簡単にいうと、人類が普遍的に共通した理解を共有できる思考のシステムである。もっと簡単にいうと、論理とは人が「わかった」と感じるシステムだ。これは世界各国、どこの文化でも、人類すべてで同じように理解されている。よく「人それぞれ論理が違う」とか、「あなたの論理と私の論理は違う」という発言を耳にするが、論理自体が人によって違うことは決してない。人によって情報量と、そこから結論に結びつくまでの過程が違うのであって、「論理という構造」は誰にとってもまったく同じであり、人類共通の普遍的なシステムなのである。

たとえば、算数がその典型だ。1+1=2であることは、どこの世界でも、どこの文化のどの人種でも、共通して同じ理解をしている。文化や人によって1+1=3になるとか、1+1=5となることはない。そして1+1=2だから、2+2=4だということも、万国共通で理解されている。この因果関係を理解するシステムが、論理といわれるものの根幹となっている。

しかしながら、人類にはひとつの大きな課題がある。私たちは常に、論理的な間違いを犯すということだ。たとえば、ランダムに集めた100人の集団に、数学のテストを解いてもらうとしよう。それを何度かくりかえすとする。出題される問題の難易度にもよるが、100人全員が常に100点満点をとりつづけることはまずない。必ずどこかで、誰かが不正解を出すので、平均点は100点以下になる。どんなに簡単なテストでも、テストを受ける人数が多ければ多いほど、平均点は100点以下になる確率は高くなるだろう。

しかしここで重要なポイントは、みんなが不正解を出すことではない。注目してほしい点は、テストで不正解であっても、それが後で答え合わせをした時に、全員が「不正解だ」と認識できることである。たとえテスト中は間違えても、最終的にはみんなが一緒に「正解」という共通なものを理解することができる。

もちろん、超難解な高等数学などは、いくら解答を説明されても、理解できない人もいるだろう。しかし時間をかけて、ひとつひとつをゆっくりと説明し、段階を追って徐々に理解度を上げていけば、最終的には誰でも理解することができる。理解できないのは、それだけ時間をかけて説明する人がいないか、もしくは理解しようと努力することを怠っているかのどちらかである。

つまり人類の思考には、必然的に「論理的な間違いを犯す」という特徴とともに「論理的な間違いを修正する能力」があり、最終的に人類すべてで共有した理解へたどり着くことができるという特徴があるのだ。

論理的な間違いとは、勘違いも含まれる。しかしこれも、後に「勘違い」だったと気づくことができる。それは数学の間違いを修正するように、論理的な間違いや勘違いを修正するということだ。こういった論理の根本的な特徴があるため、対話をしながらしばらく議論をつづけていくと、お互いの論理的な間違いを修正しあうことが可能となってくる。そして最終的には、みんなが共有した結論へと結びつけることができるのだ。

しかしながら、ここであまりに楽観的になるべきではない。残念なことに、世の中はそう単純にはできていないからだ。どんなに議論をつくしても、合意に達しないことがある。それはなぜだろう。

情報と論理の関係

何かを考える時に非常に重要となる点は、「情報」である。たとえば先に述べた1+1=2という例題があるが、これを「水温1度の水と、もうひとつ水温1度の水を合わせたら、合計で何度になるか」という質問に変えたら、どうなるだろう。

答えは言うまでもなく、1度である。しかし何の説明もしないで「1+1=?」という質問であれば、当然答えは2だ。それが「1+1=? ただし、1は水温1度を表す」と表記してあれば、答えは1となる。つまりこのふたつの問題の違いは、論理の問題ではなく仮定条件の違い、つまり解答する者に与えられる情報の違いなのである。

水温の問題であっても、ただし書きを読まなければ、誰でも正解を2だと思うだろう。くりかえすが、この両者の問題は「違う論理」でつくられたのではない。論理、つまり解を導く思考の方法はまったく同じだが、途中経過で与えられている情報が違うだけなのである。

情報量の違いによって違う結論に達することは、議論をする際に常に起こる問題である。人それぞれ、生まれてから蓄積してきた情報量がまったく違う。そこでいくら頭のキレがよく、論理的な間違いを一切犯さなくても、まったく違った結論になることがある。

たとえば、実際に私が体験したことで、次のような出来事があった。

ある日の昼下がりに、屋外の競技場で友人とスポーツ観戦をしていた時のことだ。日差しの強い真夏日だったので、午後の日差しを避けるためには、どこの席が最適かと、私は友人と話し始めた。いろいろな諸条件、つまり現在の太陽の位置と時間、東西南北がどちらかという競技場の位置関係、そして競技場の壁の高さと場所を考慮して、私たちは予測をし始めた。しかしいくら話が進んでも、いつもは非常に頭の回転が速い友人が、今回ばかりは意味不明で、私にとってちんぷんかんぷんな主張をしていた。すると、ふとある事実に気がついた。友人はオーストラリア人だったのである。つまり南半球にあるオーストラリアでは、太陽の動く方向が北半球とは逆になる。私たちのいた競技場はヨーロッパだったので、結果的には私が正しかった。しかし、もしもそこが南アフリカのヨハネスブルグであったならば、私も気がつかずに友人と同じような主張をしていただろう。

どんな人でも、必ず論理的な間違いを犯すことがある。しかし不思議なことに、それを間違いだと認識して修正する能力も備えている。そしていくら論理的に正確であったとしても、情報の差によって結論が違ってくる。そこで、このふたつの事実を同時に有効利用する方法がある。それが「議論」なのだ。議論をつづけることは、お互いに持っている情報を交換しあうだけでなく、論理的な間違いの修正もされていく。さらに議論がすすむにつれて、お互いに何の情報が欠けているかが明確になってくる。

相手に自分の持つ情報を伝えあうという作業をつづけると、そのうちにお互いの情報量が均衡へと近づいていく。「議論が出尽くす」という状態になった時は、その議題について双方の持つ情報量がほぼ均衡したことであり、また論理的な間違いも最小限度まで修正されているはずである。参加者が多ければ多いほど、論理的な修正の精度が上がってくるが、その一方で、参加者全員が均衡した情報量に達するのは難しくなってくる。それを解決するためには、時間をかけるしかない。時間をかけて、じっくりと議論を進めれば、そのうちに合意点へと収束されていくのだ。この方法は、古代ギリシャ時代の哲学者ソクラテスが実践したといわれ、対話法もしくは問答法とよばれている。

また議論をすることで、お互いに情報交換ができるのと同時に、思考が刺激されることで、お互いの知的レベルが上がることは間違いない。そうして知的レベルが上昇した者同士が議論をすることで、さらなるレベルの向上が可能となってくる。

1+1=2という事実を、なぜ人類が共通して理解できるのかという詳細なメカニズムはまだ解明されていない。しかしこれからさらに人間の脳の研究がすすむことで、将来的にはすべてが解明される日が来るだろう。いずれにせよ、私たちが「論理」という共通したツールを持っていることは間違いない。人と人が理解しあるために必要不可欠であるこの「論理」を生かすも殺すも、議論次第なのである。

世代、性別だけでなく、国境や文化を超えて人が人と理解しあうには、論理という共通項を利用するしかない。しかし議論をするという努力がなければ、論理の間違いが修正されず、また偏った情報を持ち合うことで、お互いにすれ違いで終わってしまうだろう。本当に理解しあいたいならば、本気で対話や議論をしてぶつかりあうことこそが大道なのである。

以心伝心では、決して達成されることはない。

2010年9月12日日曜日

幸福度について: アジアと日本の限界

日本の幸福度と比べて、似たような結果が出てきた国々がある。
韓国、台湾、香港の東アジアと、シンガポールだ。

幸福度を調査する方法は、大きく分けて2つある。ひとつは、直接本人に「どれだけ幸福か」もしくは、「どれだけ生活に満足しているか」と尋ねる方法で、主観的幸福度と呼ばれる。
ここでは、「内面的な幸福度」と呼ぶことにする。

もうひとつは、平均寿命、ひとり当たりGDP、成人識字率、就学率などを基本データとして導き出されるもので、代表的なものに国連の人間開発指数(HDI:Human Develeoment Index) や、英紙『エコノミスト』の生活の質指数(QLI: Quality of Life Index)がある。これらは、本人の主観がまったく考慮されていないので、「外面的な幸福度」と呼ぶことにする。

シンガポールと香港は、ひとり当たりGDPが現在では日本よりも高い。生活の質指数(QLI)では、シンガポールは11位と、日本の18位よりも上位につけている。しかし内面的な幸福度を見てみると、どの統計結果でも、韓国、香港、台湾は、日本よりもさらに低い順位となっている。シンガポールのみが、内面的な幸福度が日本よりも若干上位につけている。

以下は、外面的と内面的データによる、東アジアとシンガポールの調査結果である。

<外面的な幸福度>


▽ 国連・人間開発指標(179国): 
日本8-9位、韓国26位、香港24位、シンガポール23位、中国92位

▽ 生活の質指標(111国):    
日本17位、韓国30位、香港18位、台湾21位、シンガポール11位、中国60位


<内面的な幸福度>

▽ レスター大学調査(178国):
日本88-91位、韓国100-103位、香港61-70位、台湾61-70位
シンガポール50-55位、中国81-87位

▽ ワールド・バリュー・サーベイ(97国):
日本43位、韓国60位、香港61位、台湾47位
シンガポール30位、中国52位

▽ ワールド・データベース・オブ・ハピネス(146国):
日本49-50位、韓国65-69位、香港65-69位、台湾60-62位
シンガポール35-37位、中国58-59位


さて、東アジアと呼ばれる日本、韓国、台湾、香港、中国、そして、それに加えてシンガポールに共通するものは何だろう。

もちろん、地理的な近さが挙げられる。しかしシンガポールは、東南アジアに位置するので、マレーシアやインドネシアのほうが近い。では、文化的な共通点はどうだろう。アジアの国々が、歴史的に古くから密接に関わっていることは確かである。

日々の生活から政治的な問題まで、人々の精神に大きな影響を与えているのは、やはり宗教観だろう。そして上記した国々に共通する宗教とは、三教といわれる儒教、仏教、道教である。(シンガポールは、人口の75%以上が華人)

その中でも儒教は、仏教や道教とは決定的に異なっている点がある。それは、儒教が社会性や政治性といった「社会組織の原理」を説いていることである。そして儒教の説く社会性は、主に集団主義を意味している。

集団主義とは個人主義と正反対に位置するもので、定義としては比較的に広く使われることが多い。社会主義や共産主義、そして全体主義のスローガンとしても使われることがあった。もっとわかりやすくいうと、個人が自分の利益ではなく、他人や社会の利益を優先して行動をすることで社会全体が豊かになり、それが最終的に個人にも有益となる、という発想である。

社会という集団生活では、個人が他者のために協力することは必要不可欠である。そこで、ひとりひとりが少しずつ我慢することで社会全体が豊かになるという発想は、とても効率的に聞こえる。そのうえ、近代の東アジアにおける急速な経済発展を考えてみると、儒教的精神と経済発展には密接な関係があると推測する説もある。

実際に日本を始めとして、香港、シンガポール、台湾、韓国、そして最近では中国の経済は、世界の平均的なレベルと比べても段違いの急成長を果たしてきた。規律を守り、自己を犠牲にしてでも社会のために尽くすという精神は、産業革命以後の工業化には最適であったのだろう。こうした経済発展は集団主義のおかげといっても過言ではないのかもしれない。

ドイツの社会・経済学者マックス・ウェーバーは、西洋社会の資本主義を発展させた大きな理由として、キリスト教のプロテスタント派の中で、カルバン派の合理性と労働倫理が大きく貢献したと論じている。

形式にこだわるカトリックと違い、合理的でかつ労働すること自体を美徳としていた勤勉なカルバン派の影響が、イギリスを始めとする産業革命へと導いていったということだ。世界のどの国を見ても、宗教からくる価値観が経済発展に与える影響を無視できないだろう。それは人々の生活において、行動の原則となる善悪を判別する際に、宗教の価値観が大きく関与しているからでもある。

ただし、アジアでも儒教の影響をほとんど受けていない国々もある。

人口の90%以上がキリスト教徒であり、そのうち83%をカトリック教徒が占めるフィリピン、世界最大数のイスラム教徒を抱えるインドネシア、ヒンズー教徒が多数を占めるインド、そして上座仏教徒のタイ、カンボジア、ラオス、スリランカ、ミャンマーである。

これらの国のひとり当たりGDPを見てみると、儒教国とは大きな差があることがわかる。

フィリピンとインドネシアのひとり当たりGDPは、それぞれが約30万円、そしてインドは約25万円、タイは約70万円、カンボジアは約18万円、ラオスは約20万円、スリランカは約42万円、ミャンマーは約10万円と、いずれも100万円にも満たない。それに比べて、日本は約300万円、韓国は約250万円、香港は約380万円、台湾は約270万円、そしてシンガポールは約445万円と、差は歴然としている。


マレーシアのひとり当たりGDPは約120万円だが、人口の約25%を占める中国系の人々の役割は絶大なものがある。

マレーシアの経済誌『マレーシアン・ビジネス』によると、マレーシアでの個人資産総額上位10人のうち、8人が中国系だと発表している。マレー系人口が約65%(インド系は約7%)という事実からしても、中国系の影響は尋常ではない。さらに、タイにおける中国系人口が約14%であることから、周辺国よりも若干経済発展が進んでいるのではないかという推測もできる。実際に、タイ経済における中国系の存在感は非常に大きい。やはり儒教的精神の影響を受けた国々が、近年において飛躍的な経済発展を遂げていることは紛れもない事実なのである。

しかし例外として、北朝鮮と中国がある。

北朝鮮のひとり当たりGDPは約16万円、中国は約60万円である。共産党の一党独裁政権である中国と北朝鮮では、同じく共産主義圏であった東欧や旧ソビエト連邦とともに、過去に経済が大きく停滞した。しかしソ連が崩壊した1991年以後、中国はそれまで一部に限定されていた市場経済をさらに強く押しすすめた。そして最近の目まぐるしい中国の経済発展は、周知の事実である。しかし北朝鮮については、いまだに閉鎖的な独裁政権を維持しているので、世界でも最貧国のひとつに属している。

つまりここから推察できることは、たとえ儒教的精神を持った社会であっても、国の政治体制の違いによって、経済発展の度合いがまったく違ってくるということだ。そして経済発展に必要不可欠な政治体制とは、やはり市場経済が基本であることは間違いない。そして儒教の影響を受けた国家で、市場経済を導入した国は、すべてが急速な経済発展を果たしているという事実は見逃すことができないだろう。

その一方で、いくら急速な経済発展をしても個人の幸福度が上がらないという点も、儒教国に共通している。

ただしよく考えてみると、これは集団主義の精神と矛盾していない。つまり個人より集団が優先されることで社会全体を豊かにするという集団主義の発想は、たとえ社会が豊かになっても、基本的な精神は急には変わらない。そこで個人より集団が優先されるというシステムは、社会が豊かになった後も継続されていく。

そもそも「社会全体の豊かさ」とは曖昧なものであり、それを「富の蓄積」とするならば、いくら富を蓄積しても終わりがない。実際に日本は世界で第2位の経済大国にまで登りつめたが、「ここで経済発展を終わりにしよう」という話にはならない。そこで集団主義の社会体制がつづき、個人を軽視するために個人の幸福度については、ある程度以上で頭打ちとなってしまう。

最初から「個人の幸福」が優先されていないので、個人の幸福度が高くならないのは当然である。それに比べると、個人主義的な社会とは、個人が優先される社会である。つまり個人の幸福を追求するために最適な社会をつくるという考えである。

そもそも「個人の幸福度を高める」という発想自体が、個人主義的な考えである。そこで集団主義社会での個人の幸福度は、いくら社会全体が豊かになろうとも、個人主義社会には決して追いつくことはないだろう。

これは当たり前といえば、当たり前の話である。

ひとりひとりが我慢しあってできた集団は、全体が豊かになれば個人も幸福になる気がする。しかしフタを開けてみると、ひとりひとりが我慢しつづけるかぎり、ひとりひとりの幸福度もある程度以上は上昇しないという、まったく矛盾した結果になってしまう。それは最初から、個人の幸福を追求するという社会構造ではないからだ。

個人の幸福よりも、社会の秩序が優先されるのが集団主義の根本原則なので、至極当然の結果である。日本は、もうそろそろ集団主義から次のステップへと移行してもいい頃ではないだろうか。

少なくとも、いくら社会の改革を叫んだところで、「長いものに巻かれろ」や「事なかれ主義」といった、基本的な姿勢としての集団主義から脱却しないかぎり、日本の幸福度も上昇しないということだろう。

2010年8月27日金曜日

幸福度について: ⑦寛容さと幸福度

ある国の幸福度を知るために、非常に大きな手がかりとなる指標がある。その国が、どれほど個人に寛容かである。

社会での寛容さとは、他人とまったく違う思想、行動、言動であっても、それを平等に認めることである。つまり寛容な社会では、人々にとって選択の自由が広がることになる。

ワールド・バリュー・サーベイ所長であり、米国シカゴ大学教授のロナルド・イングルハート氏は「人間はおびえずに生きていれば、それだけ他人にも寛容になれる」と語っている。これは、ルーズベルト第32代米大統領が宣言した「人類に普遍な四つの自由:①言論の自由、②宗教の自由、③欠乏からの自由、④恐怖からの自由」にも通じている。

もっとも、当時ルーズベルトが提唱した「④恐怖からの自由」は、国家の侵略行為など、政治的な意味として使われた。しかしそれは、政治の話にとどまらないということだ。自分が自由であるならば、人とも自由を分かちあおうとする心理が働くのであろう。

では、どうすれば、ある国の寛容さを調べることできるのだろうか。

たとえば、本人に直接「あなたはどれだけ他人に寛容ですか」と尋ねるのはどうだろう。しかし寛容さとは、なかなか自分で客観的に判断できるものではない。そもそも、どうやって自分の「寛容さ」を決定すればいいのか、基準が非常に曖昧(あいまい)な点もある。そこで寛容さを調べるためには、何か、より客観的な視点が必要となってくる。

ひとつの方法がある。その国が、大多数の人々とはまったく異質な人の権利をどれだけ保障しているかを見ればいいのである。つまり、少数派の人々にどれだけ「懐の深さ」があるかを見ることである。

ひと言で「少数派」といっても、社会にはいろいろな少数派が存在する。たとえば、民族や人種としての少数派だ。しかしこういった少数派については、各国の歴史的な事情によって大きな違いが存在している。アメリカをはじめとする、移民によって作られた国と、日本のように国民の圧倒的大多数が単一民族である国を、単純に比較することはできない。そこで、世界のどこの国でも少数派の立場となっている人々を見る必要がある。

どの社会でも、常に少数派である人々とは、近年「LGBT」と称されている、性的少数者である。LGBTとは、Lesbian(女性同性愛者)Gay(男性同性愛者)Bisexual(両性愛者)Transgender(トランスジェンダー)の頭文字である。そして、近年多くの国で議論の対象となっているのが、同性愛者間での結婚を、法律でどのように扱うかという問題である。

北欧を含む西ヨーロッパでは、ほとんどの国で事実上の同性結婚を認めている。例外は、イタリアとギリシャのみである。そしてイタリアとギリシャの幸福度を見ると、西ヨーロッパの中では最低である。

東ヨーロッパのほとんどの国では、同性結婚を一切認めていない。そして東ヨーロッパの幸福度は、世界最貧国のアフリカ諸国並みに低い。

ラテンアメリカでは、アルゼンチンが近年になって同性結婚を合法化しており、ブラジル、コロンビア、エクアドルでは、事実上の同性結婚を認めている。そしてラテンアメリカの幸福度は、世界的に見ても非常に高い。

それとは対称的に、多くのイスラム教国では同姓結婚どころか、同性愛そのものが違法となっている。特にサウジアラビア、イラン、イエメン、モーリタニア、スーダンでは、同性愛者は死刑の対象である。イスラム教国で、幸福度が高い国はほとんどない。ひとり当たりGDPが世界で一番高いカタールや、世界最大の原油埋蔵量があるサウジアラビアを見ても、その裕福さと比較して幸福度は高くない。

アフリカでは、同性結婚を認めているのは南アフリカのみである。アフリカでは伝統的な価値観が強いことと、さらに多くのイスラム教徒を抱えていることもあり、ほとんどの国で同性愛が違法となっている。そのようなアフリカが世界最低の幸福度であることは、すでに述べた。

そして日本では、同姓結婚が認められていないばかりか、政治的な話題にさえあがっていない。隣国の韓国でも状況は日本と同じで、幸福度についても韓国は日本よりも一貫して低い。

ここで、まとめをしてみよう。幸福度の高い国では、同姓結婚を認めているケースがほとんどであり、同姓結婚を認めていない国で、幸福度の高い国はない。唯一の例外は、世界でもトップクラスの幸福度の高いコスタリカのみである。しかしコスタリカでも公式に合法化の動きは進んでおり、2010年4月にアリアス大統領は同姓結婚合法化の支持を表明している。また、全般的に幸福度の高い中南米諸国でも、同性愛を違法としているジャマイカ、ベリーズ、ガイアナ、グレナダは、比較的に幸福度が低いという結果がでている。

寛容さを調べるには、同姓結婚以外にも方法がある。

男女がどれほど平等に扱われているかを見ることである。それは、すでに前述した男女平等指数を活用すればいい。
http://mezaki.blogspot.com/search/label/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E5%BA%A6%E3%80%80%E5%87%BA%E7%94%9F%E7%8E%87

世界で最も男女平等が進んでいる国は、アイスランドである。そして2位はフィンランド、3位ノルウェー、4位スウェーデン、5位ニュージーランドとつづく。やはり上位は、欧州諸国が独占している。そしてこれらの国は、幸福度でも常に世界の上位を占めている。

例外は、6位の南アフリカ、9位のフィリピン、10位のレソト、16位のスリランカである。しかしながら、南アフリカ、フィリピン、レソト、スリランカのいずれの国も、ひとり当たりGDPが100万円以下である。したがって、いずれの国も幸福度は低い結果となっている。つまり、男女平等指数が高いのにもかかわらず幸福度が低い国は発展途上国だけの現象であり、先進国には当てはまらない。

南アフリカは、アフリカで唯一、同姓結婚も認めているのだが、幸福度は世界的に見てもかなり低い。南アフリカのひとり当たりGDPはちょうど100万円を割り込む程度であり、最貧国ではない。しかし、長年つづいた人種隔離政策と、その後の政策転換による反動などで、社会はいまだに安定しているとはいえない。犯罪率は世界でも最悪であり、特に凶悪犯罪の数は多い。失業率は20%以上もあり、貧富の格差も大きく、社会全体にエイズも蔓延している。そこで平均寿命は、わずか42.1歳である。そうした社会的な不安定さは、南アフリカの幸福度を低くしている原因と考えられる。したがって、国の制度として同姓結婚や男女の平等を推進しても、他の社会条件があまりにも劣悪な場合は、幸福度は上がらないということである。いずれにせよ、南アフリカは数少ない例外のケースと考えていいだろう。

ひとり当たりGDPが100万円を超える国で、男女平等指数が比較的に高いのにもかかわらず幸福度が低い国は、東ヨーロッパのみである。共産主義という名目のもとでは、男女ともに労働にいそしむという風潮があったからかもしれない。しかし東ヨーロッパでは同姓結婚がまったく認められていないように、個人にとっての寛容さはまだ低いといえる。したがって男女平等指数が高いことに加えて、同姓結婚が認められているという両方の条件を満たしていることが、寛容度の高さを表すことになる。

日本の男女平等指数は、134国中101位である。これは最下位を独占しているイスラム教国を若干上回る程度であり、アフリカのジンバブエ、マラウィ、タンザニア、バングラデシュ等の世界最貧国よりも低い指数である。

日本の男女指数の内訳を見てみると
① 経済参加と機会 108位
② 教育の格差     84位
③ 健康と生存     41位
④ 政治力       110位

となっている。つまり健康と生存以外は惨憺たる結果である。また、経済参加と機会において同一労働での男女給与格差が99位、男女収入格差では100位、女性の労働参加では83位、女性管理職の数では109位、専門職での女性の数は77位であった。しかし教育の格差での識字率、小中学校での男女格差はゼロなので世界1位だったが、大学では男62に対して女54、つまり女性の比率が男性の0.87であり、これは98位だった。健康と生存では、平均寿命が世界1位であったが、出生時の男女比では89位だった。政治力では、女性国会議員数が105位、女性の大臣職では85位であり、過去50年で女性の国家元首の数はゼロである。ただしこの順位は41位であり、世界のほとんどの国では女性の国家元首は誕生していない。

男女の格差において、賃金格差などの労働条件を平等にするためには、法律によって厳格に定めることが最低条件として必要であろう。しかし法律をつくる国会議員の大多数が男で占められていれば、女性にとって不利な社会が継続されてしまう可能性が高い。そこで女性の国会議員の数は、社会での男女平等の象徴的な役割を表すともいえるかもしれない。

日本の国会議員で女性の占める割合は、2009年の衆議院選挙の結果で若干増えはしたが、それでも全体の11.3%である。国際組織である列国議会同盟の調査によると、この割合は世界147ヶ国中96位であり、先進国では断トツに最下位である。

また日本と社会構造が似ている韓国は、男女平等指数が115位であり、内訳は①113位、②109位、③80位、④104位となっている。内容としては、健康と生存が若干高いが残りは低迷しているという、日本と同じ傾向を示している。韓国の女性国会議員の比率も13.7%(87位)と、日本と非常に近い値である。

ちなみに女性国会議員の比率が世界でいちばん高いのは、アフリカのルワンダ(56.3%)、スウェーデン(46.4%)、南アフリカ(44.5%)、キューバ(43.2%)アイスランド(42.9%)である。

特筆すべきは、ネパールの33.2%、アフガニスタンの27.3%、イラクの25.5%、パキスタンの22.2%、中国の21.3%と、いずれの国も大きく日本を引き離している。パキスタンは日本の2倍、アフガニスタンでは3倍に近いということである。また男女平等指数で9位となったフィリピンはアジアで最貧国のひとつだが、幸福度は日本よりも平均的に若干高い。これは女性国会議員の比率が21%と、日本よりも圧倒的に多いこととは無関係ではないだろう。

ただし、日本社会での男女格差を判定する場合、統計上には出にくい部分を考慮しなければならない点もある。

確かに女性国会議員の数や、賃金格差などの統計的に表れる数値が重要なのは間違いない。しかし総合順位が、敬虔なイスラム諸国とあまり変わらないというのは、驚くべき事実でもある。イスラム教国では、いまだに女性の参政権が与えられてない国も多く、またサウジアラビアでは女性が車や自転車を運転することも禁止されている。さらに多くのイスラム教国では、女性は夫と親族以外に顔を見せることが禁止されているなど、女性の行動が厳しく制限されている。そして何よりも、イスラム教では一夫多妻制が認められている。そういった極端な男女格差のあるイスラム社会と日本が大差ないという結果なのだから、日本の男女格差は深刻な問題なのかもしれない。

ところが日本の多くの家庭では、毎月の給料を全額妻に渡し、夫はそこからお小遣いをもらうという習慣がある。これは実質的に女性が家庭での権力を持っていることと等しいかもしれない。ちなみにこのような習慣は、日本以外では存在しない。また家庭内での消費の決定権はほとんど妻が握っていることが多く、こういった日本女性の隠された権力は統計に出てこない。

しかしながら、女性が家庭内の消費の決定権を握っているという事実は、日本にかぎらず欧米その他、世界中の社会でも見られる傾向でもある。またイスラム教国であるパキスタン、イランは、男女平等指数がそれぞれ134ヶ国中132位と128位と最下層であるが、私がそれぞれの国で数ヶ月滞在する中で、現地で出会った女性たちは、意外にもそれほど不自由さを訴えていなかった。そのような統計から見えない現実を充分に考慮しても、10%程度しか女性の国会議員がいないという日本の現実は、かなり特異な状態といえる。民主主義社会において、法律をつくる役割を担う国会議員が、国民の約50%を占める女性の1割しかいないということは、法律が男性優位につくられてしまう懸念があるだろう。

もっともこれが兵士などの、男女での圧倒的な肉体的差が出てくる職業であれば話は別であるし、また必ずしも、女性議員がきっちりと50%になる必要はないかもしれない。しかしながら、国民を代表する立場の国会議員のうち、女性がほんの一割しか代弁できないようでは、女性にとってフェアな社会をつくることは難しいだろう。そして女性に平等な社会でなければ、個人や少数派に寛容であろうとする姿勢も希薄となることは、これまでのデータで明らかになっている。


なぜ日本では、男女平等が進まないのか


ワールド・バリュー・サーベイの調査で、次のような質問がある。
「仕事が少ない場合、男性のほうが女性より先に仕事につけるようにすべきだ」という項目に対して、同意できるかどうかを尋ねたものである。

これは、男女の労働する機会をどのように考えているかを見ることができる。日本は27.1%が「同意できる」と答え、17.9%が「同意できない」と回答した。残りの55%は「どちらでもない」と答えた。この結果から、ちょっと複雑な、日本独特の事情が見えてきた。

まず27.1%の「同意できる」という回答だが、これは56国中29位の多さであり、上位はイスラム教国が独占している。エジプトは89.1%、ヨルダンは88.2%、イラクは83.9%の人が、男性を優先することに「同意できる」と答えている。イスラム教国につづいて多いのはアジア各国で、インド、台湾、中国、ベトナムが、それぞれ51.4%、43.6%、42.3%、40.8%である。そして少ない国では、スウェーデンの2.1%、ノルウェーの6.5%、アメリカ合衆国の6.8%と、欧米諸国が独占している。

「同意できない」と回答した割合については、17.9%の日本は下から6番目であり、下位を占めるイスラム教国と肩を並べている。エジプトが4.3%、ヨルダンが7.9%、マレーシアが15.2%、イラクが16.1%である。そして欧米諸国は、約75%から90%以上が「同意できない」と答えている。

しかしここで注目すべきなのは、「どちらでもない」と答えた割合である。日本の55%は世界でも断トツに多く、その次は韓国の37.1%、マレーシアの35.7%、香港の34.3%と、アジア各国が独占している。

以上の結果から、わかることをまとめてみよう。

日本の職場で、男女の雇用差別をあからさまにやろうとは思う人は3割未満だが、大多数の人は、たとえ雇用差別があっても反対しようとは思わない。また積極的に男女差別に反対する人は、2割にも満たない。そして半分以上の人は、男女の雇用機会ということについて考えたことがないのか、もしくは意見を持っていない、つまり「わからない」ということだ。そこで、過去からつづけてきた男尊女卑をそのまま継続しているのである。これは、現在の日本社会を象徴している結果ともいえるのではないだろうか。

つまり日本には、極端に不寛容な人がそれほど多いわけではない。ここはイスラム教国とは大きく違う。イスラム教国では、8割以上が男女差別を当然と考えているからだ。しかし日本では、大部分の人が問題意識を持っていないために、男女差別があっても見過ごしているのである。つまり、男女差別に積極的に同意はしないが、消極的には同意していることになる。これは「長いものに巻かれろ」や「ことなかれ主義」といった集団主義の、非常に悪い側面ともいえるだろう。

社会を改革するには、自分の意見を積極的に主張することが絶対に不可欠である。たとえそれが「間違っているのではないか」という意識があったとしても、何も言わず、何も行動をしないのでは、昔からのやり方を肯定することになってしまう。別のいいかたをすると、日本人はフェアではないと何となく理解をしていても、みんながそれをつづけていれば、「長いものに巻かれろ」の精神で従ってしまうということだ。正しくないと心の底では思っていながらも、何もせずに傍観するのは、不正に荷担していることとあまり変わらない。したがって、イスラム教国のように政策として男尊女卑を推奨している国とは構造がまったく違うが、結果として、日本の男女平等指数がイスラム教国と肩を並べて、世界最低ランクに属することになっている。


なぜ日本人は、寛容度が低いのか


男女格差や同性結婚は国家の寛容さについての大きな指標になるが、その他にも寛容さを象徴することがいくつかある。

たとえば日本では、未婚の親から生まれた子供の権利や、在日外国人などのマイノリティーに対する寛容性は、欧州に比べてまだまだ低い。また近年議題とされている「夫婦別性」の件も同じだ。

「夫婦別性にすると家庭が崩壊する」と主張している人々がいるが、本当の論点にするべきことは、別性にしたい人、つまり、社会での少数派に対して、その選択肢を与えるかどうかということである。選択制なので、国民すべての夫婦が別性にしなければいけないという話ではない。つまりこれは、「違う生活スタイルを求める人に、どれだけ寛容になれるか」という、社会の寛容さが問われている。それに対して反対の立場をとる人たちは、「別性を名乗る夫婦は夫婦と認めない」という、個人の選択に不寛容な立場なのである。これは、個人の自由よりも集団に同化することが優先されるべきだという心情が背景にあると考えられる。

それでは、日本はなぜ個人に寛容ではないのだろうか。これは、日本の集団主義的思考に共通していると考えられる。社会心理学者H.C.トリアンディスは、著書『個人主義と集団主義』で、寛容性の高い個人主義社会と、厳格な集団主義社会との違いを、次のように説明している。

たとえば、寛容性の高いヨーロッパの国では、どのような状況であっても、人は他と異なる行動をとる自由が許される。もしもその行動がうまくいかなければ、別の方法を試せばいい。そして最終的にうまくいけば、社会はその行動を賞賛する。仮に10のうち8の失敗を重ねても、ふたつの成功を成し遂げたことが重要であり、裏を返せば、寛容性の高い社会では、8の失敗をする自由が認められているのである。

その一方で、日本のような比較的に寛容性の低い社会では、どのような状況であっても、人はひとつかふたつ程度の「常識的な」もしくは「正しい」ことをしなければならない。そして失敗をすると、間違いなく非難の対象となる。そこで人は、なるべく間違いを犯さないように、他人と同じ行動をとる傾向となってくる。これは言いかえると、寛容な社会が肯定的な結果に着目するのに対して、厳格な集団主義社会が、常に否定的な結果に着目するということである。したがって集団主義では、協調性という名目のもとに、みんなが同じ行動をとることを強要され、異質な者への寛容さは自動的に最小限にとどまってしまう。

日本において多くの少数派が、大多数と同じ市民権を得ていないことはすでに述べた。ただし女性は、厳密にいうと少数派ではない。しかし「女性」という続柄によって平等な扱いをされない社会は、寛容な社会とは正反対に位置する。そして寛容性の低い社会は、集団主義の傾向が非常に高い。

日本よりもさらに寛容度の低いイスラム教国については、特に注目すべき点がある。イスラムの教えに忠実な人生を歩むことは、イスラム教という集団に対して個を放棄することでもある。実際に「イスラム」とは、「神への服従」という意味であるからだ。そしてイスラム教の教典である『コーラン』の冒頭は、「この本を疑ってはならない」で始まっている。こうした批判的精神を受け入れない態度は、厳格で硬直的な集団主義の典型でもある。またイスラムの教えに背く者への非寛容性からも、個人の寛容や自由とは正反対の傾向が顕著になっている。英国の歴史学者ロバート・レーシーは著書『Inside the Kingdom』で、イスラム教国について次のように記している。

「もしも、ある国が『コーラン』を憲法として採用するならば、すべての戦争は聖戦でなければならず、国のために戦死した者は聖戦士となり、秘密警察が神の仕事を請け負うことになる」
(拙訳)

集団主義的傾向のより強いイスラム教国が、同性愛者を違法とし、男女平等指数の最下位を独占していることは偶然ではない。またそのすぐ後を、日本を始め東アジア諸国が追随していることも、集団主義という観点から見れば、これも一貫性のある結果だと考えることができる。そして過去には、集団主義を究極的な形へつくりあげようとした共産主義があった。その影響を色濃く残している東ヨーロッパは、男女の平等は進んでいるが、その他の個人の寛容性については低い。そしていずれの社会も、経済発展のレベルに比べて軒並みに幸福度が高くないという点で一致しているということも、共通した結果である。

そして西ヨーロッパでは、同姓結婚にかぎらず、社会の少数派のほとんどが市民権を得ている。さらに男女平等指数でも、世界で上位を独占している。こういった事実は、西ヨーロッパが世界で最も幸福度が高い大きな理由のひとつであることは間違いないだろう。

集団主義とは、個人ではなく集団の利益を優先するものである。したがって、集団主義の思想があるかぎり、少数派に寛容な社会は決して成り立たないだろう。そもそも集団主義という発想自体が、価値の多様化を認めていないからである。

日本が個人の幸福度を上げるには、個人にもっと寛容な社会になる必要がある。そして個人に寛容な社会をつくるためには、集団主義という呪縛から逃れることが、最低限として必要な条件であろう。