2010年10月3日日曜日

論理という魔法

「議論」というと、「理屈っぽいおじさんたちが、ああでもない、こうでもないと、時には屁理屈をいいながら騒いでいる」という印象を持つ人がいるかもしれない。

議論は堅苦しく、また疲れるから嫌いだという人もいるだろう。そもそも議論などは、時間の無駄だと思う人もいるかもしれない。

どんなに話し合っても、理解しあえないことはある。どれだけ議論をつくしても、時には合意に達せないこともある。いくら頭をひねって考えても、言葉で説明できないこともある。だから言葉を超えた理解も必要だろう。

しかしながら、だからといって議論を軽視すると、大きな問題も生じてくる。それは人と人とが理解しある根幹の部分に、「論理:ロジック」という魔法のシステムがあるからだ。

論理とは簡単にいうと、人類が普遍的に共通した理解を共有できる思考のシステムである。もっと簡単にいうと、論理とは人が「わかった」と感じるシステムだ。これは世界各国、どこの文化でも、人類すべてで同じように理解されている。よく「人それぞれ論理が違う」とか、「あなたの論理と私の論理は違う」という発言を耳にするが、論理自体が人によって違うことは決してない。人によって情報量と、そこから結論に結びつくまでの過程が違うのであって、「論理という構造」は誰にとってもまったく同じであり、人類共通の普遍的なシステムなのである。

たとえば、算数がその典型だ。1+1=2であることは、どこの世界でも、どこの文化のどの人種でも、共通して同じ理解をしている。文化や人によって1+1=3になるとか、1+1=5となることはない。そして1+1=2だから、2+2=4だということも、万国共通で理解されている。この因果関係を理解するシステムが、論理といわれるものの根幹となっている。

しかしながら、人類にはひとつの大きな課題がある。私たちは常に、論理的な間違いを犯すということだ。たとえば、ランダムに集めた100人の集団に、数学のテストを解いてもらうとしよう。それを何度かくりかえすとする。出題される問題の難易度にもよるが、100人全員が常に100点満点をとりつづけることはまずない。必ずどこかで、誰かが不正解を出すので、平均点は100点以下になる。どんなに簡単なテストでも、テストを受ける人数が多ければ多いほど、平均点は100点以下になる確率は高くなるだろう。

しかしここで重要なポイントは、みんなが不正解を出すことではない。注目してほしい点は、テストで不正解であっても、それが後で答え合わせをした時に、全員が「不正解だ」と認識できることである。たとえテスト中は間違えても、最終的にはみんなが一緒に「正解」という共通なものを理解することができる。

もちろん、超難解な高等数学などは、いくら解答を説明されても、理解できない人もいるだろう。しかし時間をかけて、ひとつひとつをゆっくりと説明し、段階を追って徐々に理解度を上げていけば、最終的には誰でも理解することができる。理解できないのは、それだけ時間をかけて説明する人がいないか、もしくは理解しようと努力することを怠っているかのどちらかである。

つまり人類の思考には、必然的に「論理的な間違いを犯す」という特徴とともに「論理的な間違いを修正する能力」があり、最終的に人類すべてで共有した理解へたどり着くことができるという特徴があるのだ。

論理的な間違いとは、勘違いも含まれる。しかしこれも、後に「勘違い」だったと気づくことができる。それは数学の間違いを修正するように、論理的な間違いや勘違いを修正するということだ。こういった論理の根本的な特徴があるため、対話をしながらしばらく議論をつづけていくと、お互いの論理的な間違いを修正しあうことが可能となってくる。そして最終的には、みんなが共有した結論へと結びつけることができるのだ。

しかしながら、ここであまりに楽観的になるべきではない。残念なことに、世の中はそう単純にはできていないからだ。どんなに議論をつくしても、合意に達しないことがある。それはなぜだろう。

情報と論理の関係

何かを考える時に非常に重要となる点は、「情報」である。たとえば先に述べた1+1=2という例題があるが、これを「水温1度の水と、もうひとつ水温1度の水を合わせたら、合計で何度になるか」という質問に変えたら、どうなるだろう。

答えは言うまでもなく、1度である。しかし何の説明もしないで「1+1=?」という質問であれば、当然答えは2だ。それが「1+1=? ただし、1は水温1度を表す」と表記してあれば、答えは1となる。つまりこのふたつの問題の違いは、論理の問題ではなく仮定条件の違い、つまり解答する者に与えられる情報の違いなのである。

水温の問題であっても、ただし書きを読まなければ、誰でも正解を2だと思うだろう。くりかえすが、この両者の問題は「違う論理」でつくられたのではない。論理、つまり解を導く思考の方法はまったく同じだが、途中経過で与えられている情報が違うだけなのである。

情報量の違いによって違う結論に達することは、議論をする際に常に起こる問題である。人それぞれ、生まれてから蓄積してきた情報量がまったく違う。そこでいくら頭のキレがよく、論理的な間違いを一切犯さなくても、まったく違った結論になることがある。

たとえば、実際に私が体験したことで、次のような出来事があった。

ある日の昼下がりに、屋外の競技場で友人とスポーツ観戦をしていた時のことだ。日差しの強い真夏日だったので、午後の日差しを避けるためには、どこの席が最適かと、私は友人と話し始めた。いろいろな諸条件、つまり現在の太陽の位置と時間、東西南北がどちらかという競技場の位置関係、そして競技場の壁の高さと場所を考慮して、私たちは予測をし始めた。しかしいくら話が進んでも、いつもは非常に頭の回転が速い友人が、今回ばかりは意味不明で、私にとってちんぷんかんぷんな主張をしていた。すると、ふとある事実に気がついた。友人はオーストラリア人だったのである。つまり南半球にあるオーストラリアでは、太陽の動く方向が北半球とは逆になる。私たちのいた競技場はヨーロッパだったので、結果的には私が正しかった。しかし、もしもそこが南アフリカのヨハネスブルグであったならば、私も気がつかずに友人と同じような主張をしていただろう。

どんな人でも、必ず論理的な間違いを犯すことがある。しかし不思議なことに、それを間違いだと認識して修正する能力も備えている。そしていくら論理的に正確であったとしても、情報の差によって結論が違ってくる。そこで、このふたつの事実を同時に有効利用する方法がある。それが「議論」なのだ。議論をつづけることは、お互いに持っている情報を交換しあうだけでなく、論理的な間違いの修正もされていく。さらに議論がすすむにつれて、お互いに何の情報が欠けているかが明確になってくる。

相手に自分の持つ情報を伝えあうという作業をつづけると、そのうちにお互いの情報量が均衡へと近づいていく。「議論が出尽くす」という状態になった時は、その議題について双方の持つ情報量がほぼ均衡したことであり、また論理的な間違いも最小限度まで修正されているはずである。参加者が多ければ多いほど、論理的な修正の精度が上がってくるが、その一方で、参加者全員が均衡した情報量に達するのは難しくなってくる。それを解決するためには、時間をかけるしかない。時間をかけて、じっくりと議論を進めれば、そのうちに合意点へと収束されていくのだ。この方法は、古代ギリシャ時代の哲学者ソクラテスが実践したといわれ、対話法もしくは問答法とよばれている。

また議論をすることで、お互いに情報交換ができるのと同時に、思考が刺激されることで、お互いの知的レベルが上がることは間違いない。そうして知的レベルが上昇した者同士が議論をすることで、さらなるレベルの向上が可能となってくる。

1+1=2という事実を、なぜ人類が共通して理解できるのかという詳細なメカニズムはまだ解明されていない。しかしこれからさらに人間の脳の研究がすすむことで、将来的にはすべてが解明される日が来るだろう。いずれにせよ、私たちが「論理」という共通したツールを持っていることは間違いない。人と人が理解しあるために必要不可欠であるこの「論理」を生かすも殺すも、議論次第なのである。

世代、性別だけでなく、国境や文化を超えて人が人と理解しあうには、論理という共通項を利用するしかない。しかし議論をするという努力がなければ、論理の間違いが修正されず、また偏った情報を持ち合うことで、お互いにすれ違いで終わってしまうだろう。本当に理解しあいたいならば、本気で対話や議論をしてぶつかりあうことこそが大道なのである。

以心伝心では、決して達成されることはない。

2 件のコメント:

  1. 論理の問題というのは包括範囲が広すぎる気がします。

    前提を共通認識として明確に定義していないからではないかと考えます。

    記事に書いておられる問題はどちらも前提条件を明確にしていなかったが故に起きてしまった問題であると思うのですが。

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  2. コメントありがとうございます。

    確かに、本文中の2つの例では、前提条件が明確になっていなかったことが直接の原因です。しかし、私のポイントとしては、以下になります。


    1)話し合いをする場合、前提条件について事前に合意することはめったにない

    2)仮に前提条件が合意できたとしても、勘違いや論理上の間違いによって、同意できないことがある

    3)根気よく対話をつづけることで、いずれは同意できる点に達する可能性が高くなる。たとえ当初の前提条件が食い違っていても、対話によって修正される可能性が高くなる。

    4)そもそも、なぜ人びとはそのようなプロセスで、お互いの認識を修正しながらも最終的に同意することができるのか。同意を認識するためのシステムが「論理」というものではないだろうか

    ということです。

    おっしゃる通り、論理の問題自体は包括範囲が広いのですが、以上のようなケースは、論理の問題のひとつだと思いますが・・・。

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コメントありがとうございます。
みんなでいろいろなことを、それぞれが違った視点で考えていきましょう!