http://mezaki.blogspot.com/2010/12/blog-post_17.html
さて、どうして日本人は自由がないと感じているのだろうか。
ちなみにワールド・バリュー・サーベイの調査が最初に行われたのは1981年、そして次が1990年である。その時の日本人の感じた自由度は、両年とも10段階のうち5.5であり、調査国中でも断トツの最下位だった。当時の調査には中東やアフリカ諸国が対象国になかったという事実もあるが、それでも5.5という数字はかなり低い。
1980年から1990年といえば、バブル経済のまっただ中である。そして次の調査が行われた1995年には6に上昇し、2000年も6だった。そして2005年が6.1であったことを考慮すると、若干ながらも上昇トレンドを示している。しかしながら、日本が他の先進国に比べて極端に低い自由度を感じていることには変わりがない。
この理由を明確に指摘することは容易ではないだろう。しかし少なくとも考えられることは、日本人ひとりひとりの意志に、何らかの目に見えない制約があることだ。近代的な民主主義国家である日本の法律では、個人の自由が他の先進国とほぼ同様に保障されている。(ほぼ同様であって、同等ではないことにも注意。しかし「自由度」という点では、上位に入っている。
参照:http://mezaki.blogspot.com/2010/12/blog-post_17.html)
したがって大きな理由は、数字には出てこない、なにか精神的な側面であるに違いない。
運命論
ひとつの可能性として考えられるのは、極端な運命論だ。
つまり「人生はすべて運命で決まっているから、自分の意志で選択する余地などない」と考えることである。運命を操作しているのが「神」とするかは別にして、何をしても自分の力では及ばない、もっと巨大な力によって支配されていると考えるならば、自らの意志を反映できる人生の度合いが少ないと感じるだろう。
もちろんどんな人生でも、自分ひとりではどうしようもないことが沢山ある。生まれる場所や時間、そして顔や身体の基本構造などの遺伝情報は、自分自身では決めることはできない。だからといって、自分の意志が自分の人生に反映されていないと考えるのは、かなり極端な宗教的な発想だ。
占いや血液型判断はいまだに根強い人気があるが、占いで人生のすべてを決めている人はほとんどいないだろう。また「人生に選択の自由があるか」という質問に対して、「元来、人に自由意志など存在するのだろうか」などと、哲学的なことを考える人も、ごく少数であろう。したがって、こういった極端な運命論に、日本人全体が感化されている可能性はきわめて低い。
実際にワールド・バリュー・サーベイによる別の調査を見てみると、世界のほとんどの人々は極端な運命論を信じていない。日本で極端な運命論を信じている人は、わずか3.7%だった。
例外として、エジプトやモロッコといった一部のイスラム教徒で、国民の50%近くが「すべてが運命によって定められている」と考えている。しかし敬虔なカトリック教徒であるラテンアメリカでも、10%程度の人しか極端な運命論を信じていない。またその他の先進諸国でも、極端な運命論者は平均的に5%以下である。そして同じイスラム教徒でも、イランでは7%、ヨルダンでは5.6%と、先進諸国と同程度の国もある。
宗教が強い運命論を信仰させることはあるが、それが必ずしも「人生における選択の自由」という感覚を減らすことはない、という結果である。
無力感を学習する
ここで、「自由」に関連するとても興味深い心理学の実験を紹介したい。
米国の心理学者マーティン・セリグマンは、数匹の犬を3つのグループに分けて、次のような実験を行った。まずひとつ目のグループと、ふたつ目のグループの犬たちに、微量の電気ショックを与えた。ただしひとつ目のグループの犬たちだけ、あるパネルを押すと、そのショックが止まるしかけになっている。ふたつ目のグループの犬たちには、そのようなパネルは存在しない。そして3つ目のグループの犬たちには、電気ショックは一切与えられなかった。
しばらくすると、すべてのグループの犬が、ひとつのケージへと移された。そしてすべての犬に微量の電気ショックが与えられた。そのケージの壁は低く、飛び越えようと思えば簡単に飛び越えることができる高さだった。さて、結果はどうなっただろうか。
ひとつ目と3つ目のグループの犬たちは、すぐに壁を飛び越えて外に逃げた。しかし、ふたつ目のグループの犬たちは、その場で身をかがめて電気ショックを受けながら鳴きつづけた。ふたつ目のグループの犬たちにとって、電気ショックは逃れられないものだと「学習」してしまい、逃げ出すという努力もやめてしまったのである。このような状態を「学習性無力感」とよぶ。
セリグマンはその後、似たような実験を人間にも行った。しかし人間を対象に電気ショックを与えるのは倫理的に問題があったのか、代わりに不快な騒音で実験を行った。
ひとつ目のグループの人たちには、不快な騒音を聞かせるのと同時に、それを止めることができる選択肢を与えたのに対して、ふたつ目のグループの人たちには、不快な騒音を止める手段を与えなかった。
しばらくすると、両グループの人たちは、止めようと思えば止められる騒音を聞かされた。すると、犬の実験と同じように、ひとつ目のグループはすぐに騒音を止めたが、ふたつ目のグループは、不快な騒音を止める努力をしようとはせずに、黙って不快な騒音を受け入れた。
以上のセリグマンの実験は、自由を感じていない日本人の状況を説明できないだろうか。
少なくとも法律上は他の先進諸国とほぼ同等の自由があるのにもかかわらず、人生が自由だと感じられないという心情には、「自由」という選択を何らかの理由で放棄しているか、もしくはあきらめていることになる。学習性無力感と非常に似ている状態だ。いずれにしても、何か大きな障壁が存在することになるだろう。
そこで日本人の自由を阻害するものを、日本社会に存在する「見えない抑圧」という点で考えてみよう。
たとえば「しがらみ」とか「世間体」という言葉に代表されるように、日本には常に周囲と同じ行動をとるべきというプレッシャーがある。米国の文化人類学者で『菊と刀』の著者でもあるルース・ベネディクトは、日本の文化を「恥の文化」と称した。つまり日本の社会では、ひとりひとりが「恥」という意識を持つことによって、各自の行動を制約するのである。これは「罪の文化」である欧米とは性質が違う。そこで日本では、個人がどんなに好きな人生を送ろうと思っても、必ずといっていいほど、いろいろな「しがらみ」があり、「常識」という制約のために、好きなことができない場合が多い。
周囲とまったく同じことをしていれば、「恥ずかしい」と感じることは決してないだろう。つまり人と違う行動を「恥ずかしい」と感じる心の奥底には、集団へ同化することへの圧力が背景にあると考えられる。
「常識的に生きる」という発想は、多くの日本人が共有しているだろうが、常識的な行動とは、ある特定の集団での平均的な振る舞いにすぎない。したがって常識をいつも意識することは、いつも集団と同じ行動をしなければならないという抑圧にさらされることでもある。家族、親戚、友人、そして近所の人々と、いつもどこかで誰かが常識を盾に、「見えない抑圧」によって個人の行動を制約しようとする。
もちろん、どこの文化にも常識は存在する。常識がなければ、社会は成り立たない。しかし日本の社会は、常識というものが善悪を判断する基準となっている。何が正しくて、何が間違っているかと判定するためのよりどころが、それが常識的であるかどうかという判断になっているのである。そこで常識や世間体という制約が人々の心に重くのしかかり、法律上の権利として与えられた「自由」を行使することができずにいるのかもしれない。だからといって、その状況に完全に満足していないために、自分の人生には自由がないという不満が残っているのだろう。
とても厳格?な父は、他人と違う行動を取る幼少・少年期の私を叱る・怒る・叩くといった“しつけ”をしていました。
返信削除反抗心からかどうかは分かりませんが私の行動が変化することはなく、30歳を周った今でも自分の意思・信念で行動している気がします。
20歳前後のころは、意思も信念もなく、選択肢が多過ぎて途方に暮れた時期もありました。それはろくに学校へも行かず、学習しなかった自分の責任であり、その結果選択するチカラがなかった私には当然のことと言えると思います。
しかし、そのお陰で「学習性無力感」の様な事には陥らずに「壁を飛び越えた」と最近ではポジティブに考えれるようになりました。
昨今のネット社会繁栄で、情報量が山の様に増え、収集の選択肢も更に広がるばかりですが、相変わらずTVや大手マスコミの情報が世論や常識を創りあげているばかりではなく、「洗脳」という言葉もチラつく気がします。
広告業を営む私にとってTVや大手マスは必要悪?ではありますが、もし私に子供がいた場合、子供にTVを見せたくありません。
Youさん、コメントありがとうございます。
返信削除自分のしっかりとした意思や信念を持つことで、
「自分で自分の人生を決めている」
という感覚で生きることは、非常に大切だと思います。そうすれば、たとえ自分で想定したような結果が出なくても受け入れることができるし、なによりもそこから学んでさらに挑戦しようという希望にも繋がると思います。
その反対に、いつも自分で決断をしていない人は、何かうまく行かないことがあると、他人や社会へ責任を転換するでしょう。そういう生き方で、自分で満足のいく人生になる可能性はとても低いと思います。
メディアの件については、そうですね、確かに大手メディアの意見が知らないあいだに「世論」となっているという恐ろしい傾向はあると思います。次のブログでは、そういったメディアと世論の関係を取り上げたいと思います。そのときに、またコメントお願いします。