2010年8月13日金曜日

幸福度について: ⑤地方分権と幸福度

幸福度で常に世界の上位にいる永世中立国スイスの、国内における幸福度調査をみると、非常に興味深い結果がでてきた。

スイスの経済学者ブルーノ・S・フライとアロイス・スタッツァーによると、各カントン(州)の独立性が高ければ高いほど、つまり地方自治の度合いが高いカントンほど、住民の幸福度が高いことがわかった。連邦制を採用しているスイスでは、連邦議会より独立して各カントンが決定できる範囲に違いがあるからだ。

これは、住民自らの意見が自分のコミュニティーに直接反映されている度合いが高まるほど、個人の幸福度も高くなるともいえる。

地方自治の度合いが高いことは、選挙での一票の重要さが高くなる。それは、必然的に住民の政治意識を高めるだろう。住民が地域の政治に積極的に参加し、地元を自分たちでつくりあげているという意識が高まれば、コミュニティーでの連帯意識も高まる。たとえ何か悪い状況が発生しても、自分たちで解決手段を探していくので、最終的には住民の納得する地域をつくりあげることができるのだろう。

人口750万人のスイスでは、15,000人程度のカントン(州)から、最大124万人(チューリッヒ州)のカントンまで、比較的小規模の26の自治体がスイスという連邦国家をつくっている。公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4ヶ国語であり、各カントンには独自の議会、憲法、そして裁判所が設置され、国民が直接国政に対して投票する直接民主制を採用している。

日本でたとえると、愛知県の人口が740万人なので、愛知県が独立してさらに連邦制の政府をつくり、それを26の州に分け、それぞれの州に独自の憲法や税金制度をつくらせる、といった感じである。

スイスでは、公用語である4ヶ国各言語の地域によって、生活にも違った特色が見られる。首都ベルンや最大都市のチューリッヒを持つドイツ語圏は、人口の64%を占めており、実質上のスイスを象徴する大きな役割を担っている。

そして国際都市ジュネーブのあるフランス語圏は人口の19%、イタリア語圏は8%、ロマンシュ語圏は0.5%となっている。フランス語圏やイタリア語圏に住む人たちにとって、テレビや雑誌などのメディアはフランスやイタリアのものしか存在しない。あるのは地方新聞ぐらいである。そこで、たとえばジュネーブに住むスイス人は、フランスのニュースやドラマ、そして映画などを見て育つことになる。

そういった言語の違いは、同じスイス人でも多少の文化的な違いが出てくる。しかしながら、前述したフライとスタッツアーの調査では、異なった言語圏と、幸福度との相関関係は特に見られなかった。

しかしもうひとつ、興味深い結果が出てきた。各カントンに住む外国人の幸福度だ。

スイス国籍を持たない外国人居住者と一時労働者は、スイスの人口の22%にのぼる。そして外国人の幸福度は、スイス人と比べて低いという結果が出た。特筆すべき点は、どこのカントンでも、外国人の幸福度が一貫して低いことである。

北欧諸国や一部のヨーロッパ諸国と違い、スイスでは外国人に地方参政権がない。そこで彼らにとって、地方自治の度合いが高かろうが、まったく関係がない。したがって、地域のコミュニティーに対する帰属意識も希薄であると考えられる。


さて、地方分権が高い幸福度に貢献することは、個人の人生にも共通するのだろうか。つまり、個人でも自立すると、幸福度はあがるのだろうか。

離婚をする前と後で、日本の女性の幸福度がどう変化するかを調べたものがある。公益財団法人の家計経済研究所によると、離婚後の女性ひとり当たりの所得は、年収ベースで平均252万円から165万円と、平均で36.5%減少していた。

これだけ所得が下がるのであるから、離婚後の生活満足度も下がるかと予想する人も多かもしれない。しかし現実は、逆の結果が出ている。離婚後の幸福度は、22%も上昇していた。

たとえ所得が減っても、自分で自由に使えるお金と時間が増えたために、幸福度が増えたのである。この結果は、お金と自由を比べた時、自由を与えられたほうが人は幸せになるという象徴的な例なのかもしれない。

また別の統計で、自主性と幸福度との相関関係は、所得と幸福度との相関よりも20倍あるという結果も出ている。社会的地位や所得に関係なく、自分で自分の生活の管理ができる機会がある人のほうが、生活満足度が高いということである。

これらの事実は、スイスでの地方分権の話と一致している。たとえ結果がうまくいかなくても、自分で選択した結果なのであれば、本人は納得できるだろう。個人が好きなことを追求すれば、どんな職業についても、(その職業が好きだという前提で)自分の職業を誇りに思うことができるはずである。

その反対として、自分の人生が他人や社会の意向に従おうと常に思いながら生きる場合、何かうまくいかないと、他人や社会を責める誘惑に駆られるだろう。そうやって責任転嫁することは、社会に対しても、また自分に対しても、欲求不満の原因となってくる。


最近では日本でも、道州制への移行や、地方分権という議論は積極的にされ始めている。さて、日本でも地方分権をすすめることで、幸福度をあげることができるのだろうか。

そもそも日本では、個人主義としての「個」というものが、国民ひとりひとりに確立されていない。そして多くの地方は、いろいろな意味で国への依存体質が根強く残っている。

そこでまず、個人のレベルから集団への依存体質を改善しないかぎり、制度として先に地方を分権したところで、スムーズに事は運ばないだろう。地方分権を導入し、後に地方が疲弊した場合はどうなるか。集団への依存体質が抜けない人々は、おそらく地方分権を実行した国の責任だと主張するだろう。

最初から自立する意志のない人々を無理やりに自立させるように切り捨てても、不満がつのるだけで、建設的な解決にはならない。つまり個々の住民が、個人として自立した姿勢を持ち、地域が自立するという意識が広く浸透しなければ、地方分権はうまく機能しないだろう。

そして地方分権の結果として、地域によって大きな格差が生まれることは、容易に予想がつく。ただし、地方によって差がでることは、必ずしも悪くはないだろう。差があるならば、そこから各地方独自の生き方を模索することによって、地域の個性化につながるからだ。もちろん、そこには努力が必要だが。

しかし地元住民が参加して努力することで地域への愛着も生まれ、またコミュニティー意識も高まってくるだろう。たとえ経済格差が生まれても、結果として幸福度が上がれば問題ないだろう。ただし、国は最低限の保証としてのセイフティーネットはつくるべきだろう。

画一的な経済発展ではなく、地域の住民がいかに自分たちの満足できる地域をつくれるかを模索することこそが大切なのではないだろうか。

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