大学2年の夏、スイスのジュネーブで私はフランス語の短期留学をした。
私のクラスは、強烈な個性がひしめきあうジャングルだった。授業中に踊り出すブラジル人、ほとんど喧嘩腰で質問攻めをするアメリカ人、含蓄のあるうんちくを披露するドイツ系スイス人、そして口を開けばジョークしか言わないペルー人やスペイン人。
初めての留学経験でもあり、すっかり借りてきた猫となっていた私は、自分が異物のような感覚に襲われた。未知への期待を、巨大な不安材料がのみこんでいった。
先生に質問されたとき以外、私はほとんど発言しなかった。いつも観客席からの傍観だった。しかし心の奥では、積極的に好きなだけ、自然と発言ができる自分でありたかった。でも、どうしてもそれができなかった。
当時の私のフランス語は、第二外国語として少々かじった程度のレベル。そこで初日の授業は、先生の話す99%が理解できなかった。
もっと単語を暗記すれば自由に表現できるはず。そうやって自分自身に言い聞かせた。1週間で文法の教科書を一冊丸暗記し、単語も片っ端から覚えはじめ た。しかしすぐに、それが大きな勘違いだと気付かされた。
午前中の授業が終わり、クラスのみんなでランチをしていたときだった。クラスメートのほとんどが同年代の学生の中、みんなよりも2、3才年上だったスイス人が、ちょっと真面目な顔でみんなに問いかけた。
「ところでさあ、みんな、妊娠中絶は是か非か、どっちだと考えてる?」
ブラジル人が口火を切り、ぎこちないフランス語の議論が始まった。しばらく進むうちに、自然と英語に切り替わっていた。各自がそれぞれの意見を述べると、それまで黙っていた私に質問がきた。
「マサアキ、きみはいままで黙っていたけど、この問題についてどう考える?」
「へ?」
ちょっととぼけて、私は聞いてなかったふりをした。
「だからこの問題、妊娠中絶を、きみは賛成か、それとも反対のどっちなんだい?」
そんな問題など、生まれてから一度も考えたことがなかった。しかし何も意見が言えない自分が悔しく、苦し紛れにこう言った。
「ああ、ぼくは、反対はしないかな・・・」
その言葉には、なんの考察も込められていなかった。周りのほとんどが同年代の学生だったので、若いから仕方がない、という言い訳はできない。当時私の英語も下手くそだったが、語学の問題でもなかった。たとえ日本語で質問をされても、答えることができなかったからだ。
翌日のランチでは、話題は「死刑は是か非か」になった。 なるべく自分に振られないように目をそらしていたが、そうは問屋がおろしてくれなかった。
「マサアキ、君はどう思う?死刑について」
「あ、ああ、日本では、死刑は合法なんだけどね。は、は、は。そうだなあ、わかんないなあ・・・」
軽薄な対応しかできない自分が情けなくて、薄っぺらさに嫌気がさした。
「そうか。でも死刑制度ってのは、目には目を、歯には歯をみたいな、とても原始的な制度だと思うけどな」
スイス人がつづけた。しかしドイツ人が反論した。
「でもドイツでは、息子を殺された母親が、法廷で犯人を射殺するという事件があったんだ。で、のちの裁判では、母親はたいした罪に問われなかった。ドイツの世論は、母親に同情的な態度をとったんだ。時には殺人も正当化されるのだと・・・」
議論はつづいたが、私の頭の中は真っ白だった。何もいえず、黙って座っているのが精一杯だった。他のみんながそれぞれ意見を述べるたびに、一言一言が私をより深い劣等感へとおとしめていった。
私の劣等感は、肌の色や身体の大きさの違いからではなかった。彼らが自分自身であることを堂々と主張し、自分が軸となって生きているのに対して、それができない負い目からだった。
それまで私が日本で学んできたことは、過去の方法は何かを探り、常識やルールに従いながら「~らしく」することで、基準がいつも自分の外側にあった。だから私個人が何を感じ、何を考えるのかと、誰からも真剣に問われたことがなかった。そこで急に、知らないテーマを「どう考えるか」と尋ねられても、何も出てきようがない。
そんな、生まれ育った環境という自分でコントロールできないもので制約されていることが悔しかった。日本という文化で育ってしまったことを恨んだ。
もしかして、それは環境の問題ではなく、私自身の個人的な性格の問題だったのかもしれない。しかしすべてを自己責任とするには、やはり納得がいかなかった。できれば、環境のせいにしたかった。
ただしそれは、後ろ向きの姿勢ではない。「日本人として生まれて育ったのだから仕方がない」と、安易に諦めたくなかっただけだ。環境が私を抑圧してきたのであれば、この先の人生は、その抑圧を自ら解き放ってやればいい。
こうして、今まで教え込まれてきたことを脱構築し、再構築する日々がはじまった。
帰国後、世の中すべてについて「自分の意見は何か」という視点で積極的に考えはじめた。知識を増やすために情報を入手するのではなく、どう考えるかの材料として多くの情報を入手し、批判的な精神をもって頭をひねった。積極的にいろいろな人に議論をふっかけ、時には煙たがられもした。そして長期の休み中は、すべて海外ですごした。そうやって何年もつづけていると、だんだんと自分なりの意見が、どんなことに対しても自然と出てくるようになってきた。
そんなとき、語学力が飛躍的に向上していくのを実感できた。伝えたいことが山ほどあり、それを表現するための道具として、語学が必要不可欠になった。それ以来、劣等感も自然と消えていった。
その後、私はアメリカの大学で学び、外資系の企業で働き、ニューヨークやロンドンでも勤務した。そして10年近く世界中をくまなく旅し、旅の途中にイギリスの大学院で人類学を勉強した。大学院の授業では、私は分からないことをどんどん質問し、先生や他の学生と納得いくまで議論をした。世界中の人々と、夜通しで熱い議論をかわすことは日常茶飯事だった。各自が自己をしっかりと持ち、とことんまで話をしあう間柄だからこそ、国境も、人種も、年齢も、性別も意識せず、人間レベルで親しくなり理解しあっていく。
違う国や文化で育った人達とコミュニケーションをとる際、共通する事実の話は限られている。もちろん最初は、お互いの文化について情報交換すればいいかもしれない。日本のことをしっかりと説明できる能力も必要だろう。しかしそれだけでは、たいして間が持たないし、友情や愛情が育まれることもない。愛想笑いや、同じ釜の飯を食っただけでは不十分なのである。通訳や翻訳では、決して埋められない大きな溝がある。
自分が「こうありたい」という魂の叫びと、社会が「こうあれ」と要求するプレッシャーの狭間で、私は「こうありたい」をつらぬくために、いろいろと試行錯誤をしてきた。世界の共通語である英語は、そんな私を率直にぶつけても受け入れてくれる、広く寛容な世界へと橋渡しをしてくれた。
私にとって英語とは、国際交流というもの以前に、自分が自分でありつづける、正気を保つためのツールだったのかもしれない。
私のクラスは、強烈な個性がひしめきあうジャングルだった。授業中に踊り出すブラジル人、ほとんど喧嘩腰で質問攻めをするアメリカ人、含蓄のあるうんちくを披露するドイツ系スイス人、そして口を開けばジョークしか言わないペルー人やスペイン人。
初めての留学経験でもあり、すっかり借りてきた猫となっていた私は、自分が異物のような感覚に襲われた。未知への期待を、巨大な不安材料がのみこんでいった。
当時の私のフランス語は、第二外国語として少々かじった程度のレベル。そこで初日の授業は、先生の話す99%が理解できなかった。
もっと単語を暗記すれば自由に表現できるはず。そうやって自分自身に言い聞かせた。1週間で文法の教科書を一冊丸暗記し、単語も片っ端から覚えはじめ た。しかしすぐに、それが大きな勘違いだと気付かされた。
午前中の授業が終わり、クラスのみんなでランチをしていたときだった。クラスメートのほとんどが同年代の学生の中、みんなよりも2、3才年上だったスイス人が、ちょっと真面目な顔でみんなに問いかけた。
「ところでさあ、みんな、妊娠中絶は是か非か、どっちだと考えてる?」
ブラジル人が口火を切り、ぎこちないフランス語の議論が始まった。しばらく進むうちに、自然と英語に切り替わっていた。各自がそれぞれの意見を述べると、それまで黙っていた私に質問がきた。
「マサアキ、きみはいままで黙っていたけど、この問題についてどう考える?」
「へ?」
ちょっととぼけて、私は聞いてなかったふりをした。
「だからこの問題、妊娠中絶を、きみは賛成か、それとも反対のどっちなんだい?」
そんな問題など、生まれてから一度も考えたことがなかった。しかし何も意見が言えない自分が悔しく、苦し紛れにこう言った。
「ああ、ぼくは、反対はしないかな・・・」
その言葉には、なんの考察も込められていなかった。周りのほとんどが同年代の学生だったので、若いから仕方がない、という言い訳はできない。当時私の英語も下手くそだったが、語学の問題でもなかった。たとえ日本語で質問をされても、答えることができなかったからだ。
翌日のランチでは、話題は「死刑は是か非か」になった。 なるべく自分に振られないように目をそらしていたが、そうは問屋がおろしてくれなかった。
「マサアキ、君はどう思う?死刑について」
「あ、ああ、日本では、死刑は合法なんだけどね。は、は、は。そうだなあ、わかんないなあ・・・」
軽薄な対応しかできない自分が情けなくて、薄っぺらさに嫌気がさした。
「そうか。でも死刑制度ってのは、目には目を、歯には歯をみたいな、とても原始的な制度だと思うけどな」
スイス人がつづけた。しかしドイツ人が反論した。
「でもドイツでは、息子を殺された母親が、法廷で犯人を射殺するという事件があったんだ。で、のちの裁判では、母親はたいした罪に問われなかった。ドイツの世論は、母親に同情的な態度をとったんだ。時には殺人も正当化されるのだと・・・」
議論はつづいたが、私の頭の中は真っ白だった。何もいえず、黙って座っているのが精一杯だった。他のみんながそれぞれ意見を述べるたびに、一言一言が私をより深い劣等感へとおとしめていった。
私の劣等感は、肌の色や身体の大きさの違いからではなかった。彼らが自分自身であることを堂々と主張し、自分が軸となって生きているのに対して、それができない負い目からだった。
それまで私が日本で学んできたことは、過去の方法は何かを探り、常識やルールに従いながら「~らしく」することで、基準がいつも自分の外側にあった。だから私個人が何を感じ、何を考えるのかと、誰からも真剣に問われたことがなかった。そこで急に、知らないテーマを「どう考えるか」と尋ねられても、何も出てきようがない。
そんな、生まれ育った環境という自分でコントロールできないもので制約されていることが悔しかった。日本という文化で育ってしまったことを恨んだ。
もしかして、それは環境の問題ではなく、私自身の個人的な性格の問題だったのかもしれない。しかしすべてを自己責任とするには、やはり納得がいかなかった。できれば、環境のせいにしたかった。
ただしそれは、後ろ向きの姿勢ではない。「日本人として生まれて育ったのだから仕方がない」と、安易に諦めたくなかっただけだ。環境が私を抑圧してきたのであれば、この先の人生は、その抑圧を自ら解き放ってやればいい。
こうして、今まで教え込まれてきたことを脱構築し、再構築する日々がはじまった。
帰国後、世の中すべてについて「自分の意見は何か」という視点で積極的に考えはじめた。知識を増やすために情報を入手するのではなく、どう考えるかの材料として多くの情報を入手し、批判的な精神をもって頭をひねった。積極的にいろいろな人に議論をふっかけ、時には煙たがられもした。そして長期の休み中は、すべて海外ですごした。そうやって何年もつづけていると、だんだんと自分なりの意見が、どんなことに対しても自然と出てくるようになってきた。
そんなとき、語学力が飛躍的に向上していくのを実感できた。伝えたいことが山ほどあり、それを表現するための道具として、語学が必要不可欠になった。それ以来、劣等感も自然と消えていった。
その後、私はアメリカの大学で学び、外資系の企業で働き、ニューヨークやロンドンでも勤務した。そして10年近く世界中をくまなく旅し、旅の途中にイギリスの大学院で人類学を勉強した。大学院の授業では、私は分からないことをどんどん質問し、先生や他の学生と納得いくまで議論をした。世界中の人々と、夜通しで熱い議論をかわすことは日常茶飯事だった。各自が自己をしっかりと持ち、とことんまで話をしあう間柄だからこそ、国境も、人種も、年齢も、性別も意識せず、人間レベルで親しくなり理解しあっていく。
違う国や文化で育った人達とコミュニケーションをとる際、共通する事実の話は限られている。もちろん最初は、お互いの文化について情報交換すればいいかもしれない。日本のことをしっかりと説明できる能力も必要だろう。しかしそれだけでは、たいして間が持たないし、友情や愛情が育まれることもない。愛想笑いや、同じ釜の飯を食っただけでは不十分なのである。通訳や翻訳では、決して埋められない大きな溝がある。
私にとって英語とは、国際交流というもの以前に、自分が自分でありつづける、正気を保つためのツールだったのかもしれない。
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コメントありがとうございます。
みんなでいろいろなことを、それぞれが違った視点で考えていきましょう!