2012年2月24日金曜日

男と男、女と女が結婚できる社会が意味するもの

<この投稿はアゴラおよび、BLOGOSに掲載されています>

友人にゲイの男性がいる。

彼と出会ったのは、戦争の傷跡が生々しく残るボスニアの首都サラエボだった。たまたま同じゲストハウスに滞在し、雑談しているうちに意気投合した。そのあと1週間ほど、バルカン半島を一緒に旅した。

彼が南、私が北へ向かうために旅路を別にした数日後、メールで彼は「そういえば、ゲイだったことを言ってなかったね」と伝えてきた。

見た目や話し方からはまったく想像できなかったし、そんな話題にもならなかった。しかし私が同性愛者ではないことは、それまでの会話から彼は知っていた。そこで私たちの友人関係にとって、彼がゲイであることは特別な意味がなかった。

その後、彼の母国ベルギーへ行ったとき、彼の家に泊めてもらった。そして私がパリとロンドンに住んでいたとき、訪ねてきた彼は私のアパートで泊まっていった。そして日本にも遊びに来た。

私たちは、政治、経済、哲学、文化、アート、スポーツに至るまで、なんでも話題にして、何時間でも議論をした。そしてゲイであることがどういうことなのか、という話になった。

ロンドンのトラファルガー広場で、周囲の人々を眺めながら彼は言った。

「世界のどこの社会にも、必ず同性愛者がいる。だからここから見える、こうやって集まった人たちの中にも、必ずある一定の割合で同性愛者がいるんだ」

彼は人々を指さしながら続けた。

「でも同性愛者って、なにも特別じゃないんだよ。女性の服装をしたり、性転換手術をする人もいるけど、多くの同性愛者は僕のように、外見はストレートの男性や女性とまったく変わらない。そういう人たちのほうが、実は世の中には多いんだよ。たとえば、君がワインが好きでウイスキーが嫌い、みたいな感覚で、僕は男が好きで、女に興味がないだけ。ただ、それだけの違いなんだ」

人にはそれぞれ、好みの違いがある。だから同性愛も、単に性的嗜好という好みの違いに過ぎないのだと、この時はじめて実感した。

*

先週の2月16日、アメリカでニュージャージー州の上院が、同性の結婚を認めることを賛成多数で可決した。これで同性結婚を認める州は8つ目になる。

世界を見ると、同性結婚が合法化されている国はたくさんある。北欧をはじめとする西ヨーロッパではほぼ全域で認められており、オーストラリア、ニュージーランド、カナダや、中南米でもメキシコ、コロンビア、エクアドル、アルゼンチン、ブラジルなどで合法である。(注:パートナーシップ法として、男女の婚姻とは別に、実質的に同等の権利を保障する場合もあり、国によって違いがある)

これらの国には、ひとつの大きな共通点がある。個人にどれだけ多様な生き方が保証されているか、つまり社会がどれだけ「寛容」であるかだ。

同性結婚を認めている国では、ほぼ例外なく、男女の平等が世界でもっとも進んでいる。<男>とか<女>というカテゴリーではなく、「本人の意思」が優先され、尊重される社会なのである。それは「結果の平等」ではなく、「機会の平等」を保証しようとする動きにも重なる。

男性と女性は、生物として大きな違いがある。そこで社会が何もしなければ、男女の機会は平等ではない。だから同じチャンスが与えられるように優遇する制度をつくることは、男女が同じ土俵に立つまでの支援にすぎない。機会の平等を保証することで、あとは本人の意思と判断に任せるのだ。結果を同じにすることとはまったく違う。

社会学者のリチャード・フロリダは、同性愛者が住む地域は文化的にオープンで寛容性が高いため、さまざまな才能や人的資本を引きつけ、クリエイティブな人を多く輩出すると語っている。さらにそういった地域は、結果として不動産の価格も上昇するという。

リチャード・フロリダの理論は、大きな論争を巻き起こした。同性愛者の割合よりも、教育レベルの高さが都市の発展に強く関係しているという批判もある。コミュニティーというミクロなレベルで、経済発展と同性愛者の割合が必ずしも一致するかは分からない。しかし少なくとも、寛容なコミュニティーがクリエイティブであることは間違いないだろう。

そしてもうひとつ、とても重要な共通点がある。寛容度の高い国は、生活満足度や幸福度も高いということだ。

見た目が違う人を、差別なく平等に尊重することは、実は分かりやすい。もちろん現実は、世の中にはまだまだ差別が存在する。しかし、見た目の違いは誰にでも明らかなので、その差別を無くすことは、比較的に達成しやすい。

それよりも難しいのは、「意思や好みの違い」を認めることである。

どこの社会でも、同性愛者は目に見えない少数派だ。そこで多数決の原則に従うのであれば、多数派に直接的なメリットのない同性結婚が合法化されることは決してないだろう。

しかし寛容な社会とは、多数派が自分に直接関係がないことでも、少数派の意思を尊重し、権利を認めるのである。それに実際は、多数派にも大きなメリットがある。

あなたが人生で望むことは、すべてが多数派と同じではないだろう。いつあなたが、どこかの少数派に属しても不思議ではない。すべてが平均的な人間など存在しないからだ。

したがって少数派がリスペクトされる社会とは、多様な価値観が認められることであり、より多くの人々が、より自分の意思を実現しやすくなる。それは多数派にとっても住みやすい社会だ。それが「多様化」を推進する本当の意味であり、成熟した民主主義の姿といえる。
個人の違いが尊重される国民の、幸福度が高いのは偶然ではない。

さて、それでは、日本の現状はどうだろうか。

日本では、同性結婚など話題にも上がらない。それどころか、結婚していない親から生まれた子供(非嫡出子)の権利が、法的に差別をされている。また男女の平等を評価する「男女平等指数」では、日本は135ヵ国中98位で、一夫多妻を認めているイスラム教国と肩を並べている。ちなみに多くのイスラム教国では、同性愛者は死刑の対象となっている。そして日本の幸福度は、先進国で最低レベルだ。(参照:『幸福途上国ニッポン』目崎雅昭著)

「常識だから」が口癖ならば、「多数が正しい」と盲目的に従っていることになる。
「~らしくしなさい」と強要することは、多数派の型にはめようとする意図がある。
「みんなと同じにしなさい」は、違う人を排除する発想だ。

そういった表現が死語となり、歴史の一部として語られるようになったとき、はじめて日本が寛容な社会だといえるのだろう。そのときが来れば「人と違うことは素晴らしい」と、当たり前のように感じられるはずだ。

どこの社会にも必ず存在する、目に見えない少数派の人たちが、そんな社会に変革されたときの、生きた証人となるのである。





2012年2月16日木曜日

お知らせ(講演会)

3月11日に、世界連邦フォーラムが主催する勉強会で、講演をします。
以下、詳細です。

ピースビレッジ第1回

「人を幸せにする社会と、そうでない社会。日本は幸福途上国か?」

講 師:目崎雅昭

時 間:14:00~16:30

会 場:日比谷図書文化館 4Fスタジオプラス(小ホール)
     千代田区日比谷公園1番4号(旧・都立日比谷図書館)

参加費:会員2,000円 非会員3,000円

申 込:WEBから事前予約制。
http://www.wfmjapan.com/program/2012/03/11105128.php

支 払:講演当日会場にて現金でお支払い下さい。

主 催:世界連邦21世紀フォーラム

3・11からすでに1年が経とうとしています。しかし東日本に限らず、日本ではいまだに多くの問題が山積みです。そういったいろいろな社会問題を考えるとき、忘れてはいけない非常に重要な点があります。それは、最終的にどのような社会や国を目指すのか、という方向性です。つまり、何のために社会があり、国があるのか、という根本をしっかりと把握することです。そのひとつとして「人が幸せに暮らせる社会」は、究極的な目的となるでしょう。

では、どうすれば「幸せな社会」が実現するのでしょうか。近年ではブータンがよく話題に出ますが、私の個人的な意見として(実際に現地へ訪れたことも踏まえ)、メディアが実情以上に賞賛していると思います。しかし世界中の国々をいろいろな角度で見渡すと、実は一貫した「人を幸せにしやすい社会」の傾向が見えてくるのも事実です。どのような社会で人が幸せに成りやすく、また人を不幸にするのか、文化や社会の構造という視点から、個人と社会との関わりについて考えたいと思います。そして
「個人の幸福の追求」と「社会への貢献」が同じ延長線上にある「社会個人主義」を提言したいと思います。


2012年2月1日水曜日

異文化を真に理解するためのボーダーライン

<この投稿は言論プラットフォーム・アゴラおよび、BLOGOSに掲載されています>

ある日本人女性の話を紹介したい。

Sさんは、ネットで出会ったデンマーク人男性と結婚し、デンマークに移住した。それまでSさんは海外生活の経験はほとんどなく、語学も特別に堪能ではなかった。夫とは当初、英語でコミュニケーションを取っていたが、徐々にデンマーク語に切り替えるようになった。

現地での生活にも慣れてきたころ、Sさんは働きはじめることにした。
といっても、語学のハンデがあるため、現地の人と同じレベルで仕事を見つけるのは難しい。結局彼女は、日本食のレストランで働くことになった。

もともと真面目で責任感も強いSさんは、しっかりと仕事をこなし、すぐにみんなから信頼を得るようになった。店長からも強い信頼を得て、だんだんと彼女の存在なくして、店がまわらなくなるのほどになってきた。

デンマーク人の他の店員たちは、自分の勤務時間が終わると、たとえ仕事が中途半端でも、さっさと帰ってしまう。お客さんに対しても、サービスより自分の生活を優先するかのようだった。そこで、仕事のしわ寄せがすべてSさんにかかってきた。だんだんと彼女の仕事量は増えていき、周囲の人たちも、彼女に依存する度合いが増えてきた。

やがて店長がやり残した仕事まで、Sさんがやることになった。任されることに充実感はあったが、彼女の心には不満がだんだんと蓄積されていた。Sさんの仕事が増えていることに対して、周囲の人たちは、あたかも当然のように扱っていたからだ。

『私がこれだけみんなのために一生懸命に働いているのに、なんで私のことを理解してくれないの?』

Sさんは自分のやっている事を認めてもらい、できれば感謝の気持ちを表してほしかった。給料の問題ではなかった。

『デンマークのような個人主義の人たちは、あまりにも自分勝手すぎる。この人たちには、人の気持ちを理解する能力がないのだろうか?』

ある日Sさんは、すべての不満を夫にぶちまけた。
黙って聞いていた夫は、諭すように彼女に言った。

「周囲の人たちは、君が余分な仕事をしていることを、君が好きでやっていると思っているのだよ。だから感謝する必要はないでしょ」

そのひと言で、Sさんの世界観がガラガラと音を立てて崩れていった。

よく考えてみると、デンマークでは、社会的弱者や少数派への配慮は、日本よりも断然すすんでいる。個人を尊重するからこそ、みんなと違う人たちも同等に尊重するのである。街中で重い荷物を持っていると、見知らぬ人が当たり前のように、無言で手伝ってくれる。

相手に自分のルールを押しつけるのではなく、「本人が何をしたいのか」が優先され、それと社会のルールに折り合いをつけていくのである。それが彼らの「気遣い」であり、「やさしさ」となる。つまり、人が個として存在する根幹となる「個人の意思」への最大限の配慮なのである。だから自分の行動には、自分の意思が反映されていることが前提となる。

以上のエピソードには、もうひとつ大切な点がある。

海外に出た経験のある多くの日本人は、Sさんと似た経験があるかもしれない。しかしSさんの夫のような人と実際にコミュニケーションを取る機会がある人は、どれだけいるだろうか。もちろん友人でも構わない。要するに、文化の違いに戸惑いや疑問を感じたとき、それを率直にぶつけることができ、それに対して「彼らの弁明」をきちんと説明してくれる相手がいるか、ということだ。つまり、きちんとした「対話」の経験である。

文化人類学(イギリスでは社会人類学)では、20世紀初頭にポーランド人マリノフスキーが「参与観察」と呼ばれる、フィールドワークの手法を持ち込んだ。それまで人類学は、「机上の空論」的な要素が強かったからだ。マリノフスキーは、自らニューギニアのトロブリアン諸島へ足を運び、現地の言葉を学び、現地の人と同じ生活をすることで、現地の人々と同じ感覚で生活できるまで滞在をつづけた。

他の文化を真に理解するには、その文化の内側に同化する必要がある。他者の習慣を無意識に再現できるほど肌で感じられなければ、理解は表層的なもので終わってしまう。それは必ずしも、時間の問題ではない。たとえ何年も海外に住んでいても、ほとんどの時間を日本人と接し、日本のニュースやエンターテイメントを追うことに終始していたのでは、現地の文化を理解することは不可能だろう。

相手の文化の内側に入りながらも、外部としての視点を保つからこそ、その文化を客観的に分析できるのである。それは、日本を理解するために、日本のことだけを学んでも、日本を客観的にみることができないのと同じだ。

きちんとコミュニケーションできる相手と出会わなければ、「気が利かない欧米人とは付き合えない」などと、安易な結論で帰国してしまうのがオチだろう。身体は海外でも、頭の中は日本から出国していないのだから、日本以外のルールに適応できないのは当然だ。特に個人主義の世界を理解するには、対話が絶対に不可欠となる。それが一線を越えられるかの大きな鍵だ。

ただし、日本人の男性と女性で、一線を越えるハードルの高さは違う。

日本人女性の場合、たとえ語学ができなくとも、男は女性を獲得するために、いろいろと努力をしてくれる。だから最初は言葉が通じなくとも、結果として言葉を学び、生活習慣も学べる可能性が高い。

しかし日本人男性にとって、言葉が通じなければ、誰も努力して相手をしてくれない。ビジネスなどの、明確な利害関係がある場合は例外だが、それは所詮ビジネスの関係なので、相手も本音を出すことはない。その上、語学だけの問題ではない。普段からいろいろな事についてしっかりとした自分の意見がなければ、いくら語学を勉強したところで、相手との話題はすぐに無くなってしまう。

だから日本人男性で海外経験をしても、嫌になって帰国する人は少なくない。対話を経験せず、「あいつらとは理解しあえない」というレベルで帰国してしまう。とくに日本社会のエリートにありがちだ。そして「やっぱり日本が一番」と、内向きの発想になってしまう。それが劣等感の裏返しという自覚はない。

できれば学生として、早いうちに海外の経験を得たほうが、他の文化を理解できる可能性が確実に高くなる。学生同士ならば、話題がつづかなければ関係は継続されない。だからそこ、人間としての個人の魅力が問われてくる。

そんな環境で出来た友人ならば、どんなことでも話し合うことができる。お互いが自分自身をさらけ出し、時にはぶつかり合うことがあっても、それを認め合うことができるからこそ、本当の交流が生まれ、他の文化を理解できるのである。

盲目的で、排他的な愛国心ではなく、他の文化を肌で感じて心から理解するからこそ、自国を客観的に判断して心から愛することができるのではないだろうか。

日本を理解したいならばこそ、あえて海を渡り、彼らの習慣を学ぶべきなのだ。そうやって培ったものこそが、本当に健全な愛国心だと思う。



2012年1月25日水曜日

新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える

先日、こちらでも紹介した「Well-being Lab 新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える」で講演をしてきた。

場所は、コワーキング・スペースCEROで、秋葉原駅の目の前に建つ古い雑居ビル。このビル、昭和のにおいが残るレトロ感がプンプン。最初に足を踏み入れたとき、「こんな場所?」と正直思った。

イメージとしては、整理されてない書類がそこいらじゅうに山積みになり、その裏で不健康そうなおじさんが黙々と仕事をしてる事務所が、ずらっと肩をならべているような雑居ビル。


それが、CEROのドアを開けると、別世界が広がっている。


このギャップがなかなか面白い。白い壁に原色の赤と青の家具がアクセントになっている。秘密の隠れ家にやって来た感覚になる。

会場には30名近い方々が集まり、「Well-being Lab 新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える」がはじまった。まず、司会の小笠原さん(写真右)のお話から、私の講演へ。




3/11以後、いまだに問題は山積みとなっている。しかし多くの問題は、日本全体の問題にも共通している。そういった問題を考えるときに一番重要なことは、最終的にどのような社会や国を描いているのか、というビジョンである。

人類にとって大きな課題のひとつとして、生き残りがある。しかし先進国となった日本では、生き残りだけでは不十分だろう。すると、つぎに重要となってくるものこそ、どれだけ幸せに生きるか、ではないだろうか。

なんだかんだ言っても、最終的に判断するのは、個人の主観である。それ以上でもそれ以下でもない。嬉しいことも、悲しいことも、どれだけ感動するかも、それは自分の主観で判断する。だから幸福は、主観で体験できる最高の感情ともいえるだろう。

人間と他の動物には、決定的に違うことがある。自らの存在に「なぜ生きているのか」と意味を問い始めたことだ。そのために、私たちには「生きる意味」が必要となる。これも主観の産物だ。だからこそ、私たちは自分自身の思考や感情を最大限に尊重しなければならない。

しかし現在の日本では、主観として「生活に満足している人」や、「幸せと感じている人」があまり多くない。驚くことに、それは1958年から変わっていない。経済成長とはまったく別の問題であり、格差や年金の問題などもほぼ関係ない。

それは、日本社会の本質的な、社会構造の問題なのである。


日本人で、「幸せに生きることが人生で一番大切」と思っている人はあまり多くない。幸せに生きることが最優先課題ではないのだから、当たり前といえば当たり前の結果だろう。

幸せは、個々人が主観で感じるもの。人それぞれが違う。だからこそ、個人に人生の決定権がなければ、その人生の満足度はあがらない。しかし日本の社会では、個人が好きなことをやるのではなく、いつも「場の空気」に従うことが要求される。だから個人の存在は、小さければ小さいほど良いことになってくる。だから「みんなと同じ事をするのが幸せだ!」という発想まで出てくる。

しかし結果として、日本人はあまり幸せを感じていない。誰がどう調査しても、結果はほとんど変わらない。日本の会社で務める社員の満足度も、あまり高くない企業が多い。これも一貫している。そして自殺率も非常に高い。

個人の満足度が高い社会では、個人の自由が尊重され、人と違うことが良いこととされる。つまり多様化が奨励されている。どんな立場の人であっても、その人なりの「幸せ」を追求することが尊重されているのである。

だからといって、個人が何でも好き勝手なことをやればいい、という話ではない。個人の権利を最大限に尊重しながら、社会との関わり合いを同時に達成する必要がある。しかし、それらは矛盾することではない。個人の欲求の中でも、社会に認められたい欲求や、人に感謝されたい欲求は非常に強い。「好きなこと」の中に「社会貢献」が入るひとは沢山いる。

そこで私は、社会個人主義を提言する。(詳しくはこちら)
これこそが、今後の社会のビジョンとなるべきだろう。

**

詳細と途中の話をほとんど省いたが、大体以上のような内容だった。
そしてつぎに、坪井久人さんがCharity Japanについての講演に入った。
(写真右が坪井さん)


チャリティージャパンは、日本最大級の総合チャリティー情報ポータルサイト。サイトでは各分野で活躍している人々のインタビューなども掲載されている。坪井さんはまだ20代だが、積極的にこのような活動をしていることは、率直に素晴らしいと思う。

その後、参加者の方々と3つのグループに分かれて、対話を行った。

やはり大人数で質問を受けるよりも、小さなグループのほうが活発に発言する人が多くなる。議論は白熱していき、時間が終了した後でも、半分以上の人々がそのまま残って、終電間際まで議論はつづいた。

参加した皆様、たくさんの興味深いご意見をありがとうございました。小笠原さん、坪井さん、お疲れ様でした。そして主催して下さった長尾さん、堀畑さん、ありがとうございました!


2012年1月16日月曜日

説明しないことが奨励される社会の、大きな代償

<以下の文は、言論プラットフォームアゴラにも掲載されています>


「黙って、とりあえずやりなさい」
という表現をよく耳にする。

そしてブルース・リーの「頭で考えるな、肌でつかめ」は有名だ。
こういった姿勢はスポーツだけでなく、日本では勉強や社会道徳を学ぶことにも使われている。

しかし、これには実はとてつもなく大きな代償があることを見落としている。

たとえば、格闘技の世界を考えてみる。
格闘技で相手と対戦するとき、いちいち頭で考えている時間はない。反応するスピードが遅くなるからだ。だからこそ「肌でつかめ」の感覚を取得することは、達人の域に入ることになる。

しかし私が高校一年生で空手を始めたとき、先輩はきちんと「なぜ空手の突きは破壊力があるか」を、力学的に説明してくれた。全身のすべての筋力を効率よく動かすことで、パワーすべてを拳に集中する方法だ。「正拳突き」の威力は、単なる筋力の結果ではない。

技を取得する前に、理論的な裏付けに充分納得できただけでなく、なんとなくイメージも湧いたので、私は練習に没頭することができた。そのうちに、「どうすればもっとパワーのある突きや蹴りを出せるか」を、自分でも考えはじめるようになった。

もしも「リクツじゃない。黙って従いなさい」と言われ、ろくな説明も無しに練習をさせられていたら、私はあまり空手に魅力を感じなかっただろう。

そうはいっても最終的には、身体にしみ込むほどくり返し練習することで、「肌でつかめ」という感覚に達することは間違いない。しかし私が問題にしているのは、一番最初にどうやって意思決定をしているか、という点である。

別のたとえを考えてみる。ダンスの場合だ。
多くの日本人にとって、ダンスの基本形は「盆踊り」だろう。先日テレビで、ダンスが小学校から必修科目になる、というニュースを放送していたが、そのときダンスの指導者はインタビューで「ダンスは憶えることですから」と答えていた。つまりダンスは、「集団で音楽に合わせてあらかじめ決まった動きをすること」という認識なのだろう。

数年前、私はブエノスアイレスでタンゴを習っていた。タンゴは男性が100%リードするので、男性は特に多くのステップ(動き)をおぼえる必要がある。しかしアルゼンチン人のタンゴの先生は、「ステップは重要ではない。音楽を聴き、それをどうやって自分なりに表現するかだ」と力説していた。来日経験が何度もあるその先生は、「日本人の男性は、沢山のステップを知ってるひとはいるが、ダンスを踊ってる人は少ない」と語っていた。

たしかに私にとっての一番大きなハードルは、「音楽をどうやって自分なりに身体で表現するか」だった。青年時代にディスコ(古い?!)で踊っていたときは、本当に心から踊っている感覚はなかった。周囲の人たちの踊り方を真似て、なんとなくカッコイイと思われる形で動いていた。言うまでもなく、音楽を自分だけの解釈で表現することはなかった。しかし私がこれまで見てきた世界中の国々では、ダンスをする人たちはカッコイイかどうかは二の次で、率直に音楽を身体で表現していた。

ダンスの根本は、自分の意思を外側に発信する「内面の表現」だ。「音楽」と「身体の表現」は一対一ではないし、あらかじめ決められたものでもない。その時々の自分の感情や受け止め方によっても変化する。しかし私は、盆踊りの「音楽に従って決められた形をする」を刷り込まれて大人になってしまった。

もちろん日本の盆踊りは、文化としてきちんと存在意義があるだろう。しかし私にとって最初のダンスとしての盆踊りが身体の自由を奪ってしまったために、感情と身体が一致できない自分がもどかしかった。だからそのギャップを埋めるために、これまでいろいろと試行錯誤をした。インドで一年以上も没頭した瞑想も、自己の一貫性を取り戻すための修行だった。

冒頭でもふれたが、このテーマは運動だけの話ではない。

子供は誰でも、「どうして?」と質問をする。しかしその質問に対して、「うるさいから、黙ってやりなさい!」と大人が言い続けると、そのうちに子供は質問をしなくなるだろう。そして、黙って何でも親に従う子供は「よい子」として賞賛されていく。

すると、子供はそのうち「なぜ」という疑問さえ持たなくなってくる。その後は、「それが社会だから」とか「世の中はそういうものだから」以上に詮索するのをやめてしまう。周囲と同じ事をやっていれば、少なくとも批判されることはないからだ。

そうやって大人になった者は、今度は子供達から「どうして?」と質問されても、「そういうものだから」としか答えることができない。それ以上に「なぜ?」と聞かれると、「いいから、黙って従いなさい!」となってしまう。自分がそうやってきたのだから、当然といえば当然の結果だろう。

日本在住の外国人の友人から、こう指摘されたことがある。
「どうして日本人の母親は、いつもあれダメ、これダメと、ダメばかりいうのか?あれでは、子供が萎縮してしまうでしょう」

その通りだと思った。萎縮した子供は萎縮した大人になり、自分の外側にある「常識」に従うことを絶対視する。それは、自己が喪失していくことを意味しないだろうか。

「しつけ」とは、「既存のルールに盲目的に服従させる」ことではないはずだ。子供であってもきちんと説明をすれば、たいていは納得できる。納得しないなら、まず最初に説明が不十分だと思うべきだろう。もしも説明できないならば、それを自分が最初に憶えたときに、どうやって学んだのかを思い出してみるといい。おそらく、黙って服従した自分を発見できるだろう。

「納得しないことに従う」ことを幼少期から課すことは、成長の段階で本人の「意思」を抑圧することになる。誤解されないように強調したいが、「従うこと」自体が問題なのではない。「黙って従う」ことと、「納得して従う」ことは決定的に違う。

自分の心と体に一貫して「イエス」と言えることが、「納得する」という行為だ。しかし納得せずに、黙って従いつづけ、それが当たり前になってしまうと、自分の「意思」も限りなくゼロになっていくだろう。結果として、いくら形やルールを憶えたとしても、自分の意思を犠牲にするほど、そこに価値はあるのだろうか。本人の意思が軽視されることは、人間としての尊厳を失うことに等しい。

意思とは、ひとりひとり固有の、自分を自分としている最小単位の根源である。意思があるから、その人の個性が生まれ、人間としての魅力も出てくる。意思がなければ、それは魂のない人間と同じだろう。

仕方がないから。
それが世の中だから。
ダメなものは、ダメでしょ。

こういったものが口癖ならば、自分の「意思の存在」を疑う必要がある。
「それが日本人の国民性だ」
「日本の文化だから変える必要はない」
などと、安易な反論がでてくる場合も要注意だ。

そもそも文化とは何か。そして、何のために文化があり、なぜ社会が存在しているのか、という点にも疑問を持たなければいけない。「文化」や「伝統」という名の下に、どれだけの意思が潰されていき、どれだけの個性と人間性が犠牲になっているのか、見落とすべきではない。

日本には、「自分が本当に何をしたいのか、よくわからない」と言う人が多い。自分としっかり向き合っていなければ、分からないのは当然だろう。自分と向き合うためには、自分の意思を明確に知る必要がある。

もう一度、ここでくり返したい。「黙って従う」ことと、「納得して従う」ことは決定的に違う。自分で納得した規則やルールならば、それに従うことは苦にならない。それは社会のルールや法律も同じだろう。自分たちで社会のルールを作っているという自覚があれば、そのルールに従うことに誇りさえ感じるだろう。自分の意思が反映されているという実感は、「自由」という感覚にもつながってくる。

もしも今度、誰かに「つべこべいわず、黙ってやりなさい」と言いそうになったら、それは相手の魂を抑圧する行為だと自覚すべきだろう。そして、きちんと説明できない自分をもういちど見つめ直す、絶好のチャンスとすべきではないだろうか。

2012年1月6日金曜日

お知らせ(参加者募集)

神頼みを一切やめてから、すでに20年以上は過ぎました。
だからといって、すべてが自分次第とは思っていません。
自分ができることを、簡単に放棄したくないと感じているだけです。
自分自身が弱い存在だと自ら実感しているからこそ、
己を甘やかさないための処置でもあります。
毎年この時期になると、そんな気持ちをあらためて確認しています。


さて、以下はお知らせです。

今月の1月19日、秋葉原にあるコワーキング・スペースCEROにて、
「Well-being Lab 新春ミーティング: 3.11から日本の未来を考える」
を開催します。
(Well-being Labは、長尾さんが代表の研究所です)

詳細は以下になります。
参加ご希望の方は、フェイスブックのアカウントをお持ちの場合はこちらから、それ以外の方は、以下のアドレスへお名前を明記してご連絡ください。

以下、FBサイトからのコピーです。


2011年3月11日、未曾有の大震災を通し、日本社会は今まで抱えていた様々な問題を一挙に露呈し、人々の意識や生き方を根元的に変えることになりました。


放射能流出からの風評被害、被災地への政府の対応状況に対する政治不信等が雪崩的に広がると同時に、被災地では少子高齢化や過疎化を抱えながら、復興・復活への第一歩となる2012年を迎えます。


今回は、「幸福途上国ニッポン」の著者・目崎雅昭さんと、チャリティ情報ポールサイト「Charity Japan」の運営者・坪井久人さんをお迎えし、今後どのようにして幸せな未来社会の青写真を描くのか?・・・参加者皆さんと共に考える時間にしたいと思います。


■目崎雅昭さんからのメッセージ
 3.11からの復興も含め、日本は社会としてどのようなビジョンを持つべきなのでしょうか。単なる経済発展だけでは不十分なことは明らかでしょうが、だからといって、資本主義を真っ向から否定することも得策には思えません。個人の幸福の追求と、社会の秩序や安定は、必ずしも相反するものではありません。どうすればそんな社会を実現できるのか、「幸福」をキーワードに「日本の未来ビジョン」を皆さんと一緒に考えませんか。


■坪井久人さんのCharity Japan サイト
 http://charity-japan.com/


●日 時 : 2012年1月19日(木)19時~22時
●場 所 : Coworking Place CERO 秋葉原
●参加費 : 2,000円(ドリンク+お菓子付)
●定 員 : 40人(定員になり次第締め切らせていただきます)
●主 催 : Well-being Lab.(幸せ研究所)




2011年12月20日火曜日

啓蒙とは何か

最近いろいろなところで、いろいろな年代の人々と話す機会が多くなっている。
すると、余計なことを説明しなくても話がどんどんと進む人もいれば、どんなに話をしてもまったく噛み合わない人もいる。

いくら意見が違ったとしても、自分の意見を持つことは非常に大切だ。大切どころか、人生において最重要課題と言ってもいいかもしれない。個人の意見がなければ、個性も人間性もなくなってしまう。

しかし日本の社会を考えてみると、自分の意見を持つことは、必ずしも良いとされていない。
「あなたは何がしたいのか」
と聞かれることもあまりないし、人に聞くこともないだろう。

「つべこべ言わずに、とりあえずやるべき事をやりなさい」
という空気が蔓延し、ひとりひとりが何を考えるかは極力排除され、社会のルールや常識が絶対視されている。

このような批判を展開していると、
「それは日本人の民族性なのだから、仕方がない」
と説明する人は少なくない。
日本には日本のやり方があり、個人が自立した西洋型の社会は合っていない、というありがちな意見だ。

私はいつも、それは文化の問題ではなく、人類が共通して直面してきた課題であり、それを西洋とか東洋という言葉で線引きすることがナンセンスだと思っている。

すると、1784年にドイツの哲学者カントが、『啓蒙とは何か』(中山元訳)の冒頭で以下のように述べているのを見つけた。

啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。

未成年の状態について、カントはこう説明する

人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

当時のドイツ人に対して「自分の頭で考えることが大事」とカントが力説しているのは、要するに、当時のドイツ人はあまりものを考えていなかった証拠だろう。

人間の怠惰と臆病にある。未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。

「考えないほうが楽だから」という話は、日本人からもよく聞く。

あらゆる場所で、議論するなと叫ぶ声を耳にする。将校は「議論するな、訓練をうけよ」と叫ぶ。税務局の役人は「議論するな、納税せよ」と叫ぶ。牧師は「議論するな、信ぜよ」と叫ぶのである。

これなど、今の日本で「つべこべ言うな。やるべきことを先にやりなさい!」とまったく同じだ。18世紀のドイツでは、議論がタブーだったのである。

私は確信していることがある。
日本人が議論ができないのは、そういう訓練を受けていないから、ということだ。民族性などは関係ない。だから訓練、つまり教育を受ければいいだけの話なのである。

ひとりひとりが自分の頭で考えれば、自然といろいろな意見が出てくるので、必然的に議論へと発展する。議論がタブーとされる社会は、考える個人が少ない証拠と言っても過言ではないだろう。

人と違う意見は素晴らしいのである。批判は大歓迎すべきなのだ。そうやって、いろいろな意見があつまるからこそ、人類としての英知が積み上がっていくのだ。

啓蒙には、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。

自由のうちでもっとも無害な自由を、われわれはもっとエンジョイすべきだろう。そこに洋の東西は関係ない。


永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)