2012年2月24日金曜日

男と男、女と女が結婚できる社会が意味するもの

<この投稿はアゴラおよび、BLOGOSに掲載されています>

友人にゲイの男性がいる。

彼と出会ったのは、戦争の傷跡が生々しく残るボスニアの首都サラエボだった。たまたま同じゲストハウスに滞在し、雑談しているうちに意気投合した。そのあと1週間ほど、バルカン半島を一緒に旅した。

彼が南、私が北へ向かうために旅路を別にした数日後、メールで彼は「そういえば、ゲイだったことを言ってなかったね」と伝えてきた。

見た目や話し方からはまったく想像できなかったし、そんな話題にもならなかった。しかし私が同性愛者ではないことは、それまでの会話から彼は知っていた。そこで私たちの友人関係にとって、彼がゲイであることは特別な意味がなかった。

その後、彼の母国ベルギーへ行ったとき、彼の家に泊めてもらった。そして私がパリとロンドンに住んでいたとき、訪ねてきた彼は私のアパートで泊まっていった。そして日本にも遊びに来た。

私たちは、政治、経済、哲学、文化、アート、スポーツに至るまで、なんでも話題にして、何時間でも議論をした。そしてゲイであることがどういうことなのか、という話になった。

ロンドントラファルガー広場で、周囲の人々を眺めながら彼は言った。

世界のどこの社会にも、必ず同性愛者がいる。だからここから見える、こうやって集まった人たちの中にも、必ずある一定の割合で同性愛者がいるんだ」

彼は人々を指さしながら続けた。

「でも同性愛者って、なにも特別じゃないんだよ。女性の服装をしたり、性転換手術をする人もいるけど、多くの同性愛者は僕のように、外見はストレートの男性や女性とまったく変わらない。そういう人たちのほうが、実は世の中には多いんだよ。たとえば、君がワインが好きでウイスキーが嫌い、みたいな感覚で、僕は男が好きで、女に興味がないだけ。ただ、それだけの違いなんだ」

人にはそれぞれ、好みの違いがある。だから同性愛も、単に性的嗜好という好みの違いに過ぎないのだと、この時はじめて実感した。


先週の2月16日、アメリカでニュージャージー州の上院が、同性の結婚を認めることを賛成多数で可決した。これで同性結婚を認める州は8つ目になる。

世界を見ると、同性結婚が合法化されている国はたくさんある。北欧をはじめとする西ヨーロッパではほぼ全域で認められており、オーストラリア、ニュージーランド、カナダや、中南米でもメキシココロンビア、エクアドル、アルゼンチン、ブラジルなどで合法である。(パートナーシップ法として、男女の婚姻とは別に、実質的に同等の権利を保障する場合もあり、国によって違いがある)

これらの国には、ひとつの大きな共通点がある。個人にどれだけ多様な生き方が保証されているか、つまり社会がどれだけ「寛容」であるかだ。

同性結婚を認めている国では、ほぼ例外なく、男女の平等が世界でもっとも進んでいる。<男>とか<女>というカテゴリーではなく、「本人の意思」が優先され、尊重される社会なのである。それは「結果の平等」ではなく、「機会の平等」を保証しようとする動きにも重なる。

男性と女性は、生物として大きな違いがある。そこで社会が何もしなければ、男女の機会は平等ではない。だから同じチャンスが与えられるように優遇する制度をつくることは、男女が同じ土俵に立つまでの支援にすぎない。機会の平等を保証することで、あとは本人の意思と判断に任せるのだ。結果を同じにすることとはまったく違う。

社会学者のリチャード・フロリダは、同性愛者が住む地域は文化的にオープンで寛容性が高いため、さまざまな才能や人的資本を引きつけ、クリエイティブな人を多く輩出すると語っている。さらにそういった地域は、結果として不動産の価格も上昇するという。

リチャード・フロリダの理論は、大きな論争を巻き起こした。同性愛者の割合よりも、教育レベルの高さが都市の発展に強く関係しているという批判もある。コミュニティーというミクロなレベルで、経済発展と同性愛者の割合が必ずしも一致するかは分からない。しかし少なくとも、寛容なコミュニティーがクリエイティブであることは間違いないだろう。

そしてもうひとつ、とても重要な共通点がある。寛容度の高い国は、生活満足度や幸福度も高いということだ。

見た目が違う人を、差別なく平等に尊重することは、実は分かりやすい。もちろん現実は、世の中にはまだまだ差別が存在する。しかし、見た目の違いは誰にでも明らかなので、その差別を無くすことは、比較的に達成しやすい。

それよりも難しいのは、「意思や好みの違い」を認めることである。

どこの社会でも、同性愛者は目に見えない少数派だ。そこで多数決の原則に従うのであれば、多数派に直接的なメリットのない同性結婚が合法化されることは決してないだろう。

しかし寛容な社会とは、多数派が自分に直接関係がないことでも、少数派の意思を尊重し、権利を認めるのである。それに実際は、多数派にも大きなメリットがある。

あなたが人生で望むことは、すべてが多数派と同じではないだろう。いつあなたが、どこかの少数派に属しても不思議ではない。すべてが平均的な人間など存在しないからだ。

したがって少数派がリスペクトされる社会とは、多様な価値観が認められることであり、より多くの人々が、より自分の意思を実現しやすくなる。それは多数派にとっても住みやすい社会だ。それが「多様化」を推進する本当の意味であり、成熟した民主主義の姿といえる。
個人の違いが尊重される国民の、幸福度が高いのは偶然ではない。

さて、それでは、日本の現状はどうだろうか。

日本では、同性結婚など話題にも上がらない。それどころか、結婚していない親から生まれた子供非嫡出子)の権利が、法的に差別をされている。また男女の平等を評価する「男女平等指数」では、日本は135ヵ国中98位で、一夫多妻を認めているイスラム教国と肩を並べている。ちなみに多くのイスラム教国では、同性愛者は死刑の対象となっている。そして日本の幸福度は、先進国で最低レベルだ。(参照:『幸福途上国ニッポン』目崎雅昭著)

「常識だから」が口癖ならば、「多数が正しい」と盲目的に従っていることになる。
「~らしくしなさい」と強要することは、多数派の型にはめようとする意図がある。
「みんなと同じにしなさい」は、違う人を排除する発想だ。

そういった表現が死語となり、歴史の一部として語られるようになったとき、はじめて日本が寛容な社会だといえるのだろう。そのときが来れば「人と違うことは素晴らしい」と、当たり前のように感じられるはずだ。

どこの社会にも必ず存在する、目に見えない少数派の人たちが、そんな社会に変革されたときの、生きた証人となるのである。





2012年2月16日木曜日

お知らせ(講演会)

3月11日に、世界連邦フォーラムが主催する勉強会で、講演をします。
以下、詳細です。

ピースビレッジ第1回

「人を幸せにする社会と、そうでない社会。日本は幸福途上国か?」

講 師:目崎雅昭

時 間:14:00~16:30

会 場:日比谷図書文化館 4Fスタジオプラス(小ホール)
     千代田区日比谷公園1番4号(旧・都立日比谷図書館)

参加費:会員2,000円 非会員3,000円

申 込:WEBから事前予約制。
http://www.wfmjapan.com/program/2012/03/11105128.php

支 払:講演当日会場にて現金でお支払い下さい。

主 催:世界連邦21世紀フォーラム

3・11からすでに1年が経とうとしています。しかし東日本に限らず、日本ではいまだに多くの問題が山積みです。そういったいろいろな社会問題を考えるとき、忘れてはいけない非常に重要な点があります。それは、最終的にどのような社会や国を目指すのか、という方向性です。つまり、何のために社会があり、国があるのか、という根本をしっかりと把握することです。そのひとつとして「人が幸せに暮らせる社会」は、究極的な目的となるでしょう。

では、どうすれば「幸せな社会」が実現するのでしょうか。近年ではブータンがよく話題に出ますが、私の個人的な意見として(実際に現地へ訪れたことも踏まえ)、メディアが実情以上に賞賛していると思います。しかし世界中の国々をいろいろな角度で見渡すと、実は一貫した「人を幸せにしやすい社会」の傾向が見えてくるのも事実です。どのような社会で人が幸せに成りやすく、また人を不幸にするのか、文化や社会の構造という視点から、個人と社会との関わりについて考えたいと思います。そして
「個人の幸福の追求」と「社会への貢献」が同じ延長線上にある「社会個人主義」を提言したいと思います。


2012年2月1日水曜日

異文化を真に理解するためのボーダーライン

<この投稿は言論プラットフォーム・アゴラおよび、BLOGOSに掲載されています>

ある日本人女性の話を紹介したい。

Sさんは、ネットで出会ったデンマーク人男性結婚し、デンマークに移住した。それまでSさんは海外生活の経験はほとんどなく、語学も特別に堪能ではなかった。夫とは当初、英語でコミュニケーションを取っていたが、徐々にデンマーク語切り替えるようになった。

現地での生活にも慣れてきたころ、Sさんは働きはじめることにした。
といっても、語学のハンデがあるため、現地の人と同じレベルで仕事を見つけるのは難しい。結局彼女は、日本食のレストランで働くことになった。

もともと真面目で責任感も強いSさんは、しっかりと仕事をこなし、すぐにみんなから信頼を得るようになった。店長からも強い信頼を得て、だんだんと彼女の存在なくして、店がまわらなくなるのほどになってきた。

デンマーク人の他の店員たちは、自分の勤務時間が終わると、たとえ仕事が中途半端でも、さっさと帰ってしまう。お客さんに対しても、サービスより自分の生活を優先するかのようだった。そこで、仕事のしわ寄せがすべてSさんにかかってきた。だんだんと彼女の仕事量は増えていき、周囲の人たちも、彼女に依存する度合いが増えてきた。

やがて店長がやり残した仕事まで、Sさんがやることになった。任されることに充実感はあったが、彼女の心には不満がだんだんと蓄積されていた。Sさんの仕事が増えていることに対して、周囲の人たちは、あたかも当然のように扱っていたからだ。

『私がこれだけみんなのために一生懸命に働いているのに、なんで私のことを理解してくれないの?

Sさんは自分のやっている事を認めてもらい、できれば感謝の気持ちを表してほしかった。給料の問題ではなかった。

デンマークのような個人主義の人たちは、あまりにも自分勝手すぎる。この人たちには、人の気持ちを理解する能力がないのだろうか?』

ある日Sさんは、すべての不満を夫にぶちまけた
黙って聞いていた夫は、諭すように彼女に言った。

「周囲の人たちは、君が余分な仕事をしていることを、君が好きでやっていると思っているのだよ。だから感謝する必要はないでしょ」

そのひと言で、Sさんの世界観ガラガラと音を立てて崩れていった。

よく考えてみると、デンマークでは、社会的弱者少数派への配慮は、日本よりも断然すすんでいる。個人を尊重するからこそ、みんなと違う人たちも同等に尊重するのである。街中で重い荷物を持っていると、見知らぬ人当たり前のように、無言で手伝ってくれる。

相手に自分のルールを押しつけるのではなく、「本人が何をしたいのか」優先され、それと社会のルールに折り合いをつけていくのである。それが彼らの「気遣い」であり、「やさしさ」となる。つまり、人が個として存在する根幹となる「個人の意思」への最大限の配慮なのである。だから自分の行動には、自分の意思が反映されていることが前提となる。

以上のエピソードには、もうひとつ大切な点がある。

海外に出た経験のある多くの日本人は、Sさんと似た経験があるかもしれない。しかしSさんの夫のような人と実際にコミュニケーションを取る機会がある人は、どれだけいるだろうか。もちろん友人でも構わない。要するに、文化の違いに戸惑いや疑問を感じたとき、それを率直にぶつけることができ、それに対して「彼らの弁明」をきちんと説明してくれる相手がいるか、ということだ。つまり、きちんとした「対話」の経験である。

文化人類学(イギリスでは社会人類学)では、20世紀初頭にポーランド人マリノフスキー「参与観察」と呼ばれる、フィールドワークの手法を持ち込んだ。それまで人類学は、「机上の空論」的な要素が強かったからだ。マリノフスキーは、自らニューギニアのトロブリアン諸島へ足を運び、現地の言葉を学び、現地の人と同じ生活をすることで、現地の人々と同じ感覚で生活できるまで滞在をつづけた。

他の文化を真に理解するには、その文化の内側に同化する必要がある。他者の習慣を無意識に再現できるほど肌で感じられなければ、理解は表層的なもので終わってしまう。それは必ずしも、時間の問題ではない。たとえ何年も海外に住んでいても、ほとんどの時間を日本人と接し日本のニュースやエンターテイメントを追うことに終始していたのでは、現地の文化を理解すること不可能だろう。

相手の文化の内側に入りながらも、外部としての視点を保つからこそ、その文化を客観的に分析できるのである。それは、日本を理解するために、日本のことだけを学んでも、日本を客観的にみることができないのと同じだ。

きちんとコミュニケーションできる相手と出会わなければ、「気が利かない欧米人とは付き合えない」などと、安易な結論で帰国してしまうのがオチだろう。身体は海外でも、頭の中は日本から出国していないのだから、日本以外のルールに適応できないのは当然だ。特に個人主義の世界を理解するには、対話が絶対に不可欠となる。それが一線を越えられるかの大きな鍵だ。

ただし、日本人の男性と女性で、一線を越えるハードルの高さは違う。

日本人女性の場合、たとえ語学ができなくとも、男は女性を獲得するために、いろいろと努力をしてくれる。だから最初は言葉が通じなくとも、結果として言葉を学び、生活習慣も学べる可能性が高い。

しかし日本人男性にとって、言葉が通じなければ、誰も努力して相手をしてくれないビジネスなどの、明確な利害関係がある場合は例外だが、それは所詮ビジネスの関係なので、相手も本音を出すことはない。その上、語学だけの問題ではない。普段からいろいろな事についてしっかりとした自分の意見がなければ、いくら語学を勉強したところで、相手との話題はすぐに無くなってしまう

だから日本人男性海外経験をしても、嫌になって帰国する人は少なくない。対話を経験せず、「あいつらとは理解しあえない」というレベルで帰国してしまう。とくに日本社会のエリートにありがちだ。そして「やっぱり日本が一番」と、内向きの発想になってしまう。それが劣等感の裏返しという自覚はない。

できれば学生として、早いうちに海外の経験を得たほうが、他の文化を理解できる可能性が確実に高くなる。学生同士ならば、話題がつづかなければ関係は継続されない。だからそこ、人間として個人の魅力が問われてくる。

そんな環境で出来た友人ならば、どんなことでも話し合うことができる。お互いが自分自身をさらけ出し時にはぶつかり合うことがあっても、それを認め合うことができるからこそ、本当の交流が生まれ、他の文化を理解できるのである。

盲目的で、排他的な愛国心ではなく、他の文化を肌で感じて心から理解するからこそ、自国客観的に判断して心から愛することができるのではないだろうか。

日本を理解したいならばこそ、あえて海を渡り彼らの習慣を学ぶべきなのだ。そうやって培ったものこそが、本当に健全な愛国心だと思う。