2011年12月20日火曜日

啓蒙とは何か

最近いろいろなところで、いろいろな年代の人々と話す機会が多くなっている。
すると、余計なことを説明しなくても話がどんどんと進む人もいれば、どんなに話をしてもまったく噛み合わない人もいる。

いくら意見が違ったとしても、自分の意見を持つことは非常に大切だ。大切どころか、人生において最重要課題と言ってもいいかもしれない。個人の意見がなければ、個性も人間性もなくなってしまう。

しかし日本の社会を考えてみると、自分の意見を持つことは、必ずしも良いとされていない
「あなたは何がしたいのか」
と聞かれることもあまりないし、人に聞くこともないだろう。

「つべこべ言わずに、とりあえずやるべき事をやりなさい」
という空気が蔓延し、ひとりひとりが何を考えるかは極力排除され、社会のルールや常識が絶対視されている。

このような批判を展開していると、
「それは日本人の民族性なのだから、仕方がない」
と説明する人は少なくない。
日本には日本のやり方があり、個人が自立した西洋型の社会は合っていない、というありがちな意見だ。

私はいつも、それは文化の問題ではなく、人類が共通して直面してきた課題であり、それを西洋とか東洋という言葉で線引きすることがナンセンスだと思っている。

すると、1784年ドイツ哲学者カントが、『啓蒙とは何か』(中山元訳)の冒頭で以下のように述べているのを見つけた。

啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。

未成年の状態について、カントはこう説明する

人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

当時のドイツ人に対して「自分の頭で考えることが大事」とカントが力説しているのは、要するに、当時のドイツ人はあまりものを考えていなかった証拠だろう。

人間の怠惰と臆病にある。未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。

考えないほうが楽だから」という話は、日本人からもよく聞く。

あらゆる場所で、議論するなと叫ぶ声を耳にする。将校は「議論するな、訓練をうけよ」と叫ぶ。税務局の役人は「議論するな、納税せよ」と叫ぶ。牧師は「議論するな、信ぜよ」と叫ぶのである。

これなど、今の日本で「つべこべ言うな。やるべきことを先にやりなさい!」とまったく同じだ。18世紀のドイツでは、議論がタブーだったのである。

私は確信していることがある。
日本人が議論ができないのは、そういう訓練を受けていないから、ということだ。民族性などは関係ない。だから訓練、つまり教育を受ければいいだけの話なのである。

ひとりひとりが自分の頭で考えれば、自然といろいろな意見が出てくるので、必然的に議論へと発展する。議論がタブーとされる社会は、考える個人が少ない証拠と言っても過言ではないだろう。

人と違う意見は素晴らしいのである。批判は大歓迎すべきなのだ。そうやって、いろいろな意見があつまるからこそ、人類としての英知が積み上がっていくのだ。

啓蒙には、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。

自由のうちでもっとも無害な自由を、われわれはもっとエンジョイすべきだろう。そこに洋の東西は関係ない。


永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)


2011年12月9日金曜日

「幸福度に関するアジア太平洋コンファレンス」に参加して

経済発展だけでは人は幸せにならないことに、異論を唱えるひとは少ないだろう。しかし問題は、それ以外で分かりやすい指標がないことだ。

ちなみに先進国では、GDPと国民の満足度に相関関係は見られない

世界の国際機関政府は、近年になってGDP以外の指標を模索している。もちろん一番有名なのはブータンのGNH(Gross National Happiness 国民総幸福量)であるが、フランス、イギリス、そして日本政府も、幸福についての調査を真剣に取り組みはじめている。

「どうやったら幸福になるかは、個人がそれぞれ違うものだから、指標化することはナンセンス」、という意見もあるだろう。

そういった意見をふまえながらも、本当に幸福度を測ることはナンセンスなのか、それとも何らかの指標として作ることができるのか心理学、脳科学、経済学、統計学など、いろいろな角度からの研究が世界中ですすめられている。

そんな研究者たちに加えて、各国の政策担当者統計担当者ら約 250人の専門家が12月5・6日に世界中から東京へ集合し、二日間のコンファレンスが行われた。

日本から内閣府経済社会総合研究所ESRI)、そして「先進国クラブ」と呼ばれるOECD経済協力開発機構)、アジア開発銀行ADB)、韓国統計庁KOSTAT)、国連アジア太平洋経済社会委員会UNESCAP)と、そうそうたる機関が主催するイベントである。
http://www.measuring-well-being.asia/jp/

そんなコンファレンスに、今回の登壇者のひとりでもある袖川芳之さんの紹介で、私も参加することができた。ちなみに袖川さんは、『幸福の方程式』(ディスカバー携書)の著者である。

会議の当日は内閣府特命担当大臣古川元久氏のスピーチではじまり、各参加機関責任者、そしてブータンのGNH委員会担当長官Karma Tshiteem氏のスピーチがつづいた。(下記の写真は、ブータンのKarma Tshiteem氏)


当日のプログラムはこちら

その後、3つの分科会に別れ、それぞれのテーマについての議論が行われた。ここからは同時通訳がなくなり、英語のみ。後で聞いた話だが、政府の予算の都合でそうなったらしい。

朝9時から18時まで二日間、じっくりと会議が進められた。

ここで会議の内容をすべて要約するのは無理があるので、印象に残った点だけを簡単に書きたい。

会議に参加した人々に、人生で「幸福」が非常に重要であることは、共通の認識だろう。しかし問題は、幸福をどうやって定義するかだ。

日本語でも「幸福」と「幸せ」は若干ニュアンスが違う。そして英語では、「Happiness」の他に「Well-being」が使われることが多い。各国の文化の違いによっても、それぞれの言葉の意味が違ってくる。ちなみに、このコンファレンスの英語のタイトルは「Measuring Well-Being and Fostering the Progress of Societies」で、Happiness ではなくWell-beingを使っている。

「Happiness」という単語では、あまりにも解釈が広くなってしまう懸念があるので、科学的に判定しようとする場合は、Subjective Well-being (SWB)が使われることが主流となっている。日本語の定訳はないが、主観的満足感主観的幸福感、もしくはカタカナで主観的ウェルビーイングとでも訳したほうがいいかもしれない。

しかしSWBでもその解釈に仕方にばらつきがあるようだった。会議中でも、そういった部分を指摘する人が何人かいた。

細かい定義や相違を突っ込んでいけば、必ず例外や矛盾がでてくることは否めない。しかし私としては、もっとマクロな視点で統計結果を眺め、そして文化の差ではなく人類共通の部分に的を絞ることで、人類として普遍性のあることが見えてくると考えている。

拙著『幸福途上国ニッポン』は、そういったアプローチで、文化や社会構造によって個人の幸福度に影響をあたえる要因を探ったものである。

登壇者のひとりで、オーストラリアのクイーンズ大学Paul Frijters教授は、私と似たような考えを持っているようだった。

Paul Frijters氏は190センチほどの長身にスキンヘッド、さらに黒いカウボーイハットを首にかけていたので、会場でもひときわ目立っていた。彼とは、コーヒーブレイクの時に話す機会があった。

私の持論である、日本人の幸福度が低い構造的な理由を説明すると、彼はすぐに「ああ、わかる、わかる。その通りだよ」と、同意をしてくれた。

そして私は、多くの人々に私の持論を説明する際、年齢が高くなればなるほど共感されにくくなっている、という事実も説明した。

すると Frijters氏は、

「そりゃ、そうだよ」

と、当たり前のように言い切った。

「30歳を過ぎた相手は、やめたほうがいいね。時間の無駄だから。だって、例えばなぜ警察官を採用するときに、25歳以下しか募集しないか分かる?25歳をすぎると、他の思考を受け入れることがとても困難になるからだよ。軍隊も同じだよね」

つまり30歳までに経験してきた世界観を、その後に覆すことはほとんど無理ということだろう。

そして彼は、こうも言った。

「君は日本のために、そういう本をどんどん書くべきだよ。日本の若者は、自分が幸せになるための言い訳が必要みたいだから」

よく考えてみると、私の個人的に親しい友人たちは、国籍を問わず、全員が「典型的なナントカ人ではない。30歳になる前に多くは異文化で生活した経験を持ち、文化や社会を硬直的なものとは考えていない。そして自分や自分の住む社会を、一歩離れた視点で見ようとしている。

そして何よりも、国や文化を超越した人間としての根本的な共通項を見いだしており、それが友人としての絆となっている。

私は、「幸せ」も基本的に同じではないかと考えている。つまり、細かい言葉尻や表現に注目するのではなく、人類として共通に感じる「幸せ」は同じであろう。そして、それが重要と思う心もまた、普遍的な事実であると信じている。

だからこそ、個人の幸せを追求することが、人生にとって一番重要であるということも、また人類共通だと思っている。

もちろん「個人の幸せ」に、自分以外の幸せも含まれるという前提だが。


自分が幸せになれば、自然と他人も幸せにしたくなる。しかし他人のことを優先させてばかりいると、自分はいつまでたっても幸せになれないばかりか、他人も幸せにしない可能性がある。
それもまた、人類の共通項であろう。


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