2011年8月15日月曜日

医者の役目とは?

フェイスブックでほとんど偶然に、高校時代の空手部の後輩ふたりとつながった。そして先日、23年ほどぶりに、それぞれと飲みにいった。

ひとりは某大物政治家の長男なので、最近父親の地盤を継ぐため(?)に、地元で秘書をやっている。高校時代は「木村一八と喧嘩をしたことがある」と豪語していた輩だ。

よく話をきくと、中山美穂主演の当時のドラマ『まいどおさわがせします』のロケを見に行き、パンツ一枚で走り回る木村一八を指さして笑っていたら、後で本人に呼び出されたらしい。そこで喧嘩になりそうになったところ、横から佐藤B作が止めに入ったというオチだった。

そんな人物なので、当時から態度がデカく、ふてぶてしい印象を与えることもあった。でも同時に、どこか憎めない、愛嬌のある性格でもあった。要するに、自分に素直に生きているだけなのだろう。個人的には、非常に好感の持てる生き方である。

結局、彼とは朝7時まで飲みながら、政治や社会についていろいろな話をした。駅の改札口の前でも話が終わらず、最後はその場で30分ほど話し込んだ。


もうひとりの後輩は、現在八王子の病院で院長をやっている。フェイスブックでつながるまで、彼が医学部にいって医者になったことさえ知らなかった。日本の医療を世界へ輸出する試みにも取り組んでいるらしい。

私の著書に共感してくれたようで、医療の現場でも集団主義からの脱却が必要と感じているとのことだった。

非常に印象的だった彼のひと言がある。

「医者の役目とは、患者を幸せにすることなんですよ」

私は激しく同感する。しかし現状は、多くの医師たちは彼と同じ意見ではないのだろう。それは、病気を治療する行為、つまり「マイナスをゼロまで戻す」ことが医者の役目と感じている人が多いからではないだろうか。

ちょっと話がそれるが、管総理大臣が国家の目標として「最小不幸社会」を掲げたときに、私は非常に大きな違和感をおぼえた。政治の役目とは、「個人が幸せになる社会」をつくることではないか、と思っているからだ。

もちろん、幸せを感じる要素は無限大にある。個人によって、どう幸せになるかは千差万別だ。だからこそ、自分で心底納得できる、自分だけの人生を選択できる環境をつくることが政治の役目ではないだろうか。それには寛容な社会が絶対に必要となってくる。(参照:幸福途上国ニッポン

そして一番重要なのが、本人の意志である。どうすれば自分が幸せになれるかを、自分で理解していなければ、選択があっても意味がない。

話を戻そう。

医者の役割とは、患者を修理するのではないと思う。私の後輩が言うように、患者の人生がどうすれば幸せになるか、それの手助けとして医療を使うべきではないだろうか。しかしそのためには、本人がどういう人生を望んでいるのかを、医師は知る必要がある。

しかし後輩いわく、現状はちょっと複雑だ。どのような治療をしようかと患者に相談すると、多くの患者は「先生にすべてお任せします」と答えるらしい。しかしながら、もしも医療ミスがあれば、容赦なく訴訟の対象となり責任を追求される。

どうやって病気に向き合うかは、ひとそれぞれが違って当然だろう。ひとりひとりの歩んできた人生が違うのだから、同じ病気でも治療方法が違うことが大前提とすべきではないだろうか。

しかし集団主義では、基本的に人と違うことを認めない。だから患者も先生も、顔のない壊れたロボットを修理するかのように、マイナスからゼロに戻すことに専念する。そこに、「幸せな個人の人生とはなにか」という、プラスの要因を考える判断基準が入る余地はない。

自分の人生は自分のものであれば、自分の病気をどのように治療し、果てはどのように死にたいかも自分で決定するのが当然であろう。

しかし集団主義というシステムでは、「本人の意志」は重要ではない。「みんなそうだから」という理由で、みんなと同じことを強要されてしまう。だから自分の人生が自分のものである、という意識も希薄になっていくのだろう。そのような人生では、幸せを実感でなくても無理はない。

私が拙著『幸福途上国ニッポン』で提唱している社会個人主義は、医療の世界にも必要な生き方といえるのかもしれない。



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